睦月──上旬

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仕事始めも過ぎて、日常をすっかり取り戻した区役所のフロアーの一角。  橋本美咲は、紺のスーツ姿で自分の席につき、長い髪を指でいじくりながら、パソコンの画面を見つめていた。  画面には、音声管理局の地方本局から送られてきた被疑者リストの一覧表が映っている。被疑者の数は、五百八十七件。元旦からの累計の数である。これが多いのか少ないのか、他の支局の状況を知ることが美咲にはできないので、判断はつかなかった。  ただ、地方本局から応援者が来ていないところをみると、だいたい想定の範囲内の件数なのだろう。事実、年が明けてから毎日出勤を義務付けられている美咲の、一覧表の現在の未処理件数は五十二件だった。  彼女は画面から目を離した。パソコンのかたわらに置いてあるメモ帳に落書きでもして、ひと休みしようかと思った矢先。パソコンからのメールの着信音が鳴った。メール画面に切り替える。 【政府は俺の声を合成して無理やり10万円取ろうとしている。これはひどい冤罪だ】  ――こういうの、いちばんこまっちゃうのよねえ。ぜんぶ否定。  美咲は、溜め息をついて一覧表の画面に戻った。送られてきたメール主の行の右側には、監視動画アリ、目撃情報アリとなっている。彼女は、右端のリクエストボタンをマウスでクリックした。  すぐにファイルが二つ、送られてきた。美咲は、ファイルの中身を確認したあと、返信メールを書きはじめる。 【添付させていただきましたファイルを、どうか御覧になっていただき、当日に発声したことを是非思い出していただきたく、再度メールをさせていただきました。御返信の程、よろしくお願い致します】  悪文ではあるが、これはこれで役人の書いた文章っぽくなっていた。美咲は、ファイルを添付して送信した。  ――さあて、休憩しようかな。ちょうど三時過ぎだし。  美咲は、デスクの引き出しからビニール袋に入ったミニどら焼きを二個取り出した。そして、十メートルほど離れた所に設けられたドリンクサーバーに行き、紙コップに入れた緑茶を持ち帰った。  彼女はミニどら焼きをほおばりながら、お茶を飲み、自分のメモ帳に落書きをはじめた。描いているのは、ゼロシキパンフレットのイラストにある小さな女の子の姿だ。  ……描き終えると、美咲は微笑みを浮かべた。出来栄えに満足したのだった。  頭を上げて、再び被疑者リストの一覧表を見ると、未処理件数が一件減って五十一件になっていた。  彼女の顔に、さっと明るい輝きが入った。  画面をスクロールすると、終わりの方にある行の左端に(期限徒過)の文字が浮かんでいた。  ――苦労したんだ、この人。三回送っても、たしか返事がなかった。  音声管理局の支局での調査期間は、一週間と決められていた。その間に返信メールが無かったり、信憑性の高い証拠が有るのに偽りの弁明を続ける者がいた場合は、強制的に過料の手続きに移行することになっていた。調査期間と名付けられてはいるものの、実質は被疑者の釈明期間のようなものだったのである。  橋本美咲は、今日の夕食をどうするか、レストランに行くか自宅で作るか、何を食べるか考えながら、パソコンの画面を見つめて、メールが送られてくるのを待った。
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