睦月──中旬

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睦月──中旬

『このままでは、ゼロにならない』  雫森玲香は、村越優也の書いた手帳のメモを見つめていた。それはいつもの走り書きではなく、一文字一文字ていねいに書かれていた。彼女に会う前に、書いたものだった。  玲香と村越は《プロスぺラ》のフロアーのテーブル席で、注文した料理とワインが運ばれてくるのを待っていた。激しいダンスを想起させる情熱的なリズムのギター曲が流れている。店内の席は、ディナーを楽しむ人たちで、ほとんど埋まっていた。声は聞こえないものの、せわしく動く数名のウエイトレスの姿が、店内を活気あるものにしていた。  窓ガラスによって締め切られたフロアーの外には、玲香と村越がシャラップ宣言について何度も話しをしたオープンテラスがある。そこは今、寒さのために閉鎖中になっていて、パーテーションが無くなったテーブルと、その周りの椅子が凍り付いたように並べられているだけだった。  玲香は村越を見た。眼光が鋭くなっている。久々に見る彼の表情だった。  ――今夜はデートのつもりで、きたんだけどな。  彼女は、そう思いながらもメモを書いた。 『ここのところ、感染者数が横ばいだから?』  村越は首を横に振って、テーブルに置いてあったグラスを取り、水を飲み干した。  一月に入ってから、全国の一日当たりの新型コロナウイルスの新規感染者数は、ずっと三千人前後で推移していた。しかしこれは、シャラップ宣言が発令される前の十二月に感染した人の数字である。感染者数は、まもなく激減するだろうと誰もが予想しているところであった。  玲香は、続けてメモを書いて、村越に見せた。 『じゃあ、水際対策のこと? もう落ち度はないはずだけど』  村越は、また首を横に振った。メモを書きはじめる。  入国者の水際対策は、シャラップ宣言の発令に合わせて強化されていた。自宅待機を一切取り止めにし、政府が指定したホテル等の宿泊施設に全員入居してもらっていた。期間は一箇月。入国者は、感染者の軽症とほとんど同じ扱いの、強い監視体制下で生活していた。今年になってからは、入国者がこの国の人と会ったり街を出歩くという事態は、全く無いはずであった。用意された宿泊施設は間もなく満杯になるため、大人数が収容可能なスポーツ選手のエリート村の施設を利用することも既に決定している。 『シャラップ宣言は問題ない。成功する。この国のみんなの力で、何とかここまでにした。だからこそ、ゼロを目指す生活様式だけでは意味がないんだ。ゼロにしないと。こんなことを二度とやるわけにはいかない。ここでゼロにしなければ、このやっかいなウイルスは、また必ず数を増やす。そうなったらイチから出直しだ。こんな生活は、これで終わりにしなければ。今は、一度きりの大勝負の時なんだ』  村越の手帳を持つ指が、かすかに震えていた。 『わかったわ。ゼロにするには、どうすればいいの?』  その時、店長のなぎさがサービスワゴンにタパスの皿と赤ワインを乗せて、ふたりのテーブルにやってきた。  玲香は、あわててメモを書いて、彼女にだけ見せた。 『ごめん、なぎさ。後にしてもらっていいかな? この人と、これからちょっと仕事なの』  なぎさも黒いロングエプロンのポケットから、注文伝票を取り出して、その裏をメモ代わりにして書き、玲香にだけ見せる。 『あら。今夜はプライベートなのかと思ってたわ』 『そうね。だから、お食事はお食事でゆっくり楽しみたいの。ほんとにごめん』  なぎさはうなずいて、微笑みながらサービスワゴンを引いて厨房の方に戻っていった。 『明日から、わたしはまた眠れないほど忙しくなるのよね』 『たぶん。でもこの前ほどには、ならないと思う』  ふたりは、しばらく見つめあっていたが、やがて周囲に決して聞かれることのない密談に入っていった。
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