睦月──中旬

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徳山拓信は、経理課の同僚たちと会社の近くにある老舗の和食の店に入っていく。  今夜は遅ればせの新年会だった。ほんとは上旬にと企画されていたのだけれども、この店の一月限定のコースが、けっこうな評判を取っていて予約が取れなかったのである。そのコースの名は《サイレント会食》。美味しい食べ物とお酒は、人を黙らせる力がある。それを提供しようとするこの店からの挑戦状のようなコースだった。  靴を下駄箱に入れ、暗めの照明の廊下を拓信は同僚たちと歩く。彼の気持ちは、軽いとは云えないものの、若干の高揚感があった。  この新年会は、昨年の四月に人事異動があってから、初めての飲み会だった。普通ならば、花見を兼ねた新人の歓迎会から始まって、決算業務終了の打ち上げや、暑気払い、忘年会それから営業課などの他のセクションとの交流やらなんやらで頻繁に行われる飲み会が、昨年は全く行われなかった。  拓信は、飲み会が無くなってせいせいしている反面、どこかで一抹の寂しさも感じていた。それは好きとか嫌いとかの気持ちを超えて、仕事の一部になっていたからだろう。むろん、残業手当など出たことなどないが。  宴会の部屋は、襖が開いていた。拓信たち十人は、それぞれ宴席につく。課長は座敷側の奥の中央に、ほかの者はそれなりに。席には本日のお品書きと共に、箸やグラス、おちょこが置かれている。  部屋は純和室のおもむきだが、席は掘りごたつのようになっていて、座りやすかった。  酒類は部屋に入った時からテーブルの上に置かれていた。冷えたビールやウイスキーのボトル、赤白のワイン、ソフトドリンク。日本酒は大吟醸や純米酒の著名な銘柄が十本近く並んでいる。高級な部類の飲み放題で、料理との合わせを楽しんでもらおうという、この店が考えた企画だった。  グラスやおちょこに酒をついでいるうちに、仲居さんによって、先付けが運ばれてきた。  ふぐ刺しをこんもりと盛り付け、その上に、ちりめんじゃこを振っただけのシンプルなものだった。  一同は、酒の入ったグラスを掲げて笑みを浮かべると、隣りどうしになった人とそのグラスを静かに合わせて宴をはじめた。  拓信は、箸で先付けのものをつまみ、口に入れた。こりこりとかりかりの食感が同時におとずれた。ちりめんじゃこの塩の味がほどよい繊細な味だった。とろっとした日本酒と合わせて、喉に流し込むと、口の中には複雑な旨みが残った。  彼は同僚たちを見渡した。みな満足げな顔をしている。自分もたぶんそんな顔をしているのだろうと拓信は思った。たまにはこんな飲み会もいいかもしれない。これで同僚とのコミュニケーションが取れるかどうかは正直疑問だが。コロナ禍が去ったら、今夜の話をゆっくりすればいい。共通の同時体験は、意外と長く記憶に残るものだから。  先付けに続いて、お凌ぎが運ばれてきた。鮨が二貫。ぷっくりとした小ぶりのホタテと、銀の筋が鮮やかなキビナゴ。北と南の食材を一皿に盛った大胆な取り合わせだった。  どんな酒と合わせようか、拓信はそう思いながらテーブルの端に並んだ充実した酒類を見つめた。極上の酔い心地を予感していた。
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