睦月──中旬

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昭和の時代にタイムスリップしたような錯覚に陥るほどの、古い住宅が立ち並ぶ細い道を一台の車がゆく。こげ茶色のコンパクトカー。かなりの年代物ではあるが、手入れは行き届いており、ときおり真冬の午後の光を反射して、ボンネットが輝きをみせる。  その車は、とある一階建ての家屋の小さな庭に駐車した。角ばった大型のカセットテープレコーダーと、風呂敷に包んだ荷物を抱えた僧衣姿の承然和尚が、車から出てくる。  ガラス戸の玄関の前で、ジャージ姿の若い小太りの男が、承然の到着を待っていた。若者は、この家の者ではない。  互いに黙礼したあと無言のまま、承然はその若者に案内されて家の中に入った。仏壇がある居間には大きな犬がいて、承然と顔を合わせたとたん、ワン、と鳴いた。  彼は犬が苦手なので少したじろいだが、そんなことで居間を出ていくわけにはいかない。今日は仕事で来ているのだ。  部屋の中央で、この家の年老いた主人が目を閉じて座り、横たわった犬の腹を撫でていた。ジャージ姿の若者が主人のかたわらについて、正座をした。主人の肩を何度か軽く叩いて、合図のようなものをする。そうすると主人は、犬から手を離し、居ずまいを正した。目は閉じたままで。  承然は、老主人と若い男に、一礼して仏壇の前に行った。畳に僧衣の触れる音がした。  カセットテープレコーダーを先に置いて、座って風呂敷をとき、数珠や中啓や教本や、携帯用の小さな焼香の香炉を取り出す。香炉に火を入れて整え、教本を乗せた中啓とともに、正座を続けている若者に差し出した。  承然は数珠を手にして、視線の先に置かれた遺影を、見つめた。  微笑みを浮かべた銀色の髪の老婆が写っている。承然は、その故人の思い出をたどった。はたから見ていても、彼女は夫の身の回りの世話を本当によくしていた。その生活は献身的だったといえるかもしれない。近所の人たちと、いつも明るく話をしていた姿が承然の胸によみがえってきた。彼女の、一筋を貫いた人生の充実が、遺影の笑顔によく表れているように承然には思えた。本日は故人の三回忌であった。  読経をする前に承然は振りかえり、二人にもう一度礼をした。仏壇に線香をあげ、数珠を音立てる。おりんを二度鳴らして、カセットテープレコーダーの再生ボタンを押した。 〈ぶっせつまーかーはんにゃーはーらーみーたーしーんぎょおーー、かーんじざいぼーさーぎょーしん、はんにゃーはーらーみーたーじーしょーけん〉……  ……おりんの音が幾重にも響きわたり、レコーダーの停止ボタンが押されてテープに録音されていた三つの読経が終わった。あたりは焼香と線香の煙がただよい、その香に満ちていた。しばしの静寂。  承然は入念に練習を重ねてきたものの、やはり数珠やおりんを鳴らす所作事の間が、今ひとつになってしまい、満足のいく出来にならなかったことを悔いていた。  彼は座ったまま、仏壇を背にした。  犬が寝そべったまま、横を向いてしっぽを振っている。経が流れている間、この犬が吠えることはなかった。よく訓練された犬なのである。  承然は、犬の隣で正座したままの老主人の手を取った。そして掌の上に一文字一文字ゆっくりと、片仮名で字を書きはじめた。 『ス、マ、ナ、イ  コ、ン、ナ、ノ、デ』  老主人は首をを大きく横に振り、承然の手を取って、同じように字を書く。 『ヨ、カ、ツ、タ  ク、ヨ、ウ、ニ、ナ、ツ、タ』  その言葉に承然は、深く頭を下げた。また老主人の掌に字を書く。 『ツ、ラ、イ、デ、シ、ヨ  コ、ノ、ク、ラ、シ』  この老主人は独り住まいであった。承然も同じ独り住まいであるが、彼らは自宅においても声を出すことは禁じられていた。独り言だとしても、口から放たれた飛沫や漏れたエアロゾルは、部屋の調度品や床のあちこちに付着する。もしそれにコロナウイルスが含まれているとすると、ウイルスが消え去る前に部屋を訪れる者が感染する可能性があるというのが、その理由であった。  そんな声を出せない自らの生活よりも、さらなる不自由を抱えて日々を過ごしているであろう、この老主人に承然は心を寄せた。  だが老主人は、またも大きく首を横に振った。 『ミ、ン、ナ  ガ、マ、ン、シ、テ、ル  ソ、レ、ニ』 『ソ、レ、ニ、?』 『モ、ウ、ス、グ、オ、ワ、ル』  承然は、思わず老主人の肩に手を置いて、何度も何度もうなずいた。  一月も半ばを過ぎ、一日当たりの新型コロナウイルスの新規感染者数は、全国で二百人を割り込むまでになっていた。大方の予想通り、激減したのである。発声をする違反者は全国で後を絶たないものの、シャラップ宣言は着実に成果を上げているのだった。  若者がにこやかに、台所からお茶と和菓子を運んできた。  大型犬は窓のある方にのっそりと動いていき、そこでまた寝そべった。日射しが気持ち良さそうだった。  本来ならば、ここで承然は長々と説法をするのだが、今日は割愛するしかなかった。  三人は居間の中央で座を囲み、熱いほうじ茶と、かりんとう饅頭を喫っしながら、しばらく静かな時を過ごした。
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