睦月──中旬

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 片柳萌奈は、このあいだ歩いた波止場の舗道に来て、白い息を吐きながら入江を眺めていた。  左には遠く競艇場が見え、正面の海の向こうには商業圏の街並み、右には高架道路となった橋があり、その先の埠頭の景観を遮っている。  波止場の下では、さざ波が絶え間なく打ち寄せ、長い時をかけてコンクリートを侵食しているのが見える。  萌奈は《カラフルシング》に出勤する前に、わざわざこの場所に足を運んだ。どうしても、したいことがあったのだ。ちょっとだけ早起きしただけなのに、かなり眠い。  彼女は、入江から視線をはずし、左右に首を振って舗道の長さを確かめようとした。  直線の道がけっこう続いており、首を振るだけでは分からず、小走りで移動して確認したが、やはり分からない。萌奈は、結局スマホの地図アプリで距離を確認することとなった。  ――ふう。だいたい三百メートルぐらいかな。二メートル間隔として百五十人ってところか。当たるやろうか。当てな。  昨日ついに、一日当たりの新型コロナウイルスの新規感染者数は、全国で二桁になった。九十六人。待望の二桁に、あらゆるマスメディアとSNSでは、喜びの言葉があふれた。  政府は二桁になるのを待っていたかのように、新しいイベントを全国的に開催することを、昨日の午後九時に発表した。  それは、シャラップ宣言の緩和政策と云えるものであった。《十分声出し会》と名付けられたそのイベントの参加者は、政府指定の場所で十分間だけ声を思いっきり出してもいいことになったのである。国民の、黙っていることによるストレスを少しでも和らげようとする意図が、この政策にはあった。  片柳萌奈が住む地域では、今いるこの波止場が政府の指定した場所なのであった。波止場の舗道から、思い切っきり海に向かって声を出す。風が強かったり向きが悪い場合は、中止になることも告知されていた。  彼女にとって、これは朗報だった。そのイベントでは、歌をうたってもいいはずだからだ。二月になれば、声は出せるようになると彼女は考えているものの、やはり早く歌って喉の具合がどうなっているか確かめたかった。ただ、単純に歌いたいという気持ちもある。また、萌奈には歌のトレーニングを一刻も早く再開しなければならない事情があった。  けれども。このイベントは誰でも参加できるわけではなかった。参加希望者が多数の場合は、抽選で参加者が選ばれることにになっていたのである。抽選になることは、目に見えていた。それも当選の確率が、かなり低くなるであろう抽選になることが。  会場を確認したところでどうなるものでもなかったが、とりあえずゲン担ぎのつもりで、会場の現場から、彼女は申し込みをしたかったのである。現場まで足を運んだ労苦を、運命が報いてくれるような気がしていたのだ。  萌奈は、クリームイエローのハーフコートのポケットから、スマホを取り出した。操作をして、参加希望者登録画面にたどり着く。彼女は、要求されている事項を軽やかなリズムで次々に入力した。  ――よし、いってしまええ。  萌奈は、送信ボタンを押した。  しばらくして、スマホの画面が切り替わり『ご応募、ありがとうございました。日時は決まり次第、ご登録のメールアドレス宛にメールにて、ご連絡致します』と出た。  ――重かったんな、きっと応募が殺到しとうけん。  ポケットにスマホを戻して、萌奈は歩き出す。実入りは少ないものの、客の入りは良好の《カラフルシング》に出勤である。  橋を渡っている途中で、ポケットの中のスマホが振動した。  立ち止まって、もう一度スマホを取り出すとメールが届いていた。事務所からだった。春のコンサートツアーのために用意された、新曲の楽譜と音源がファイルで添付されている。  ――もう、できたと。  送られてきたその曲は、萌奈がメインボーカルをつとめることになっていた。  春からは通常の状態でコンサートが行われることを前提に、事務所のスタッフは既に動き出していたのである。  萌奈がメインボーカルを担当するのは、この曲が初めてであった。アイドルになって四年目。やっとつかんだ飛躍のチャンスだった。  ――曲も決まった以上、早う声に出して歌うてみたか。練習ば重ねて自分のもんにしたか。ばってん。  事務所は、萌奈に対して春のコンサートについては、ひとつの条件を提示していた。  それは、マスクを着用してのパフォーマンスだった。この間のコンテストの結果に気を良くした事務所は、コンサートの話題作りのひとつとして、この曲を企画したのである。  彼女は、もちろんアイドルだがマスクをつけてパフォーマンスすることに、自分でも意外なほど抵抗はなかった。むしろメインをつとめることができる喜びの方が大きい。危惧しているのは、マスクをつけて歌唱することの影響であった。  萌奈は、歌声がこもってしまうことによる変化が、やはり不安だった。歌声に、こもりを解消する加工を施してもらってもいいのだが、できれば生の声をお客さんに聞いてもらいたい。そうするには曲を歌い込んで、歌の先生とも相談しながら、今までの歌い方とはかなり異なる技術的な修正が必要だった。  評判を取り過ぎて、ずっとそのままになるのも困る。史上初のマスク歌手とか呼ばれるようになったりしたら、かなりげんなりするだろう。  ――なんかなし。やるしかなか。  萌奈は、届いたばかりの音源をイヤホンで聴きながら職場に向かう。ストリングスやピアノが効いた、胸に染み込むようなバラードだった。
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