神無月

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 徳山拓信は夜明け前に起きて、リビングでノートパソコンを起動し、仕事を始めた。  昨晩ビールを飲み過ぎて二日酔いなのか、はたまた早起きして眠いのか、仕事はそれほど捗ってはいない。  突然、彼は二つ咳をした。  あわててテーブルに常時置いてある体温計で、熱を測った。三十六度四分。平熱だった。  拓信は、安堵のため息をした。  たぶん、だいじょうぶだろう、彼は思う。これまでも咳が続いたり、夜中に寒気がしたり、三十七度近くまで熱が上がったことがあった。  そのたびに、拓信はコロナに罹ってしまったことを覚悟してきた。医者にかかる手順もスマホで調べてみたりもした。だが数日すると、その症状はなくなり、拓信の杞憂であったことが分かった。大げさかもしれない。少しナーバスになり過ぎているかもしれない。けれども彼は真剣だった。自分が罹患して、大樹と繁美にうつすのだけは、したくない。そういう思いで彼は、もう随分と長い間、過ごしてきたのである。その経験から、この二つの咳は、コロナの症状とは違うと思ったのだった。  時計が午前七時を告げた。繁美が、のそのそとパジャマ姿のままやってきた。彼女はリモコンを持って、テレビのスイッチを入れた。 〈昨日の新たな感染者の数は、一万九千五百六十四名でした。総理大臣は昨日の夕方、引き続き不要不急の外出を控え、リモートワークを徹底するように呼び掛けました――〉 「へえ。昨日は割と多かったのね」  繁美が独り言を呟いた。  テレビのニュースは、もうずっと前から、同じようなような文言を繰り返していた。定型化していると云ってもいい。  拓信は昨日の新規感染者数を聞いても、もう何も思わなかった。少し前までは、当日の午後四時四十五分になったら、スマホで最新情報を必死になって検索したものだった。けれども、もうそんなことはしていない。自分の知らない人が、どこの誰がコロナになろうが、拓信にとっては、どうでもいいことだった。  要は自分と自分の家族が罹らなければそれでいい。そういう思いで彼の胸は満ちていた。けれども、この病原菌から、どうやって家族の体を守ったらいいか、拓信はまるで分からなかった。  三人がいまだコロナに感染していないのは、ただ運がいいだけなのかもしれなかった。彼らは感染した人たちと同じような予防をしているだけなのだから。  拓信もまた、政府が新しい方策を繰り出してくれるのを、ただ待っている人のひとりなのだった。  彼は、繁美が朝食をつくっているのをしばらく見ていたが、やがてパソコンを見続ける仕事を再開した。
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