神無月

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総理大臣の執務室。壁掛けの時計が、九時を指している。  部屋の中央に、大ぶりのテーブル。黒味がかった茶色のそれは、よく手入れされているのか、艶が輝きを放っている。しかしそのテーブルに物が置かれることは、今やない。本来であるならば、大量の書類が一面に置かれ、書類をつかんだり、もとに戻す手がしきりに行き交うはずだが、もうそんなことはない。テーブルは、ただの飾りになっていた。  そのテーブルを取り囲んでいるのは、一人がけのソファー四つ。テーブルと同じ色をしている。ソファーには、どれもテーブル側を前にして三方に、分厚い透明なアクリル板のパーテーションが設置されていた。  席は、三つ埋まっている。男二人と女が一人。三人は、みなマスクをしていた。出入り口に近い席に座っている男と女は、手に分厚いメモ帳とボールペンを持っていた。 「遅いな」  浅溝は、まるまると太った手首にしている腕時計を見ながらつぶやいた。彼は、内閣府の中に設けられている特別機関――新型コロナウイルス緊急事態宣言策定局の局長を務めていた。 「学者の方だから、のんびりされているのでしょう」  そう言ったのは、雫森玲香。浅溝局長の下で働いている。彼女はショッキングピンクのビジネススーツを着て、布マスクの色も、それに合わせていた。公務員としては、ほとんどアウトな服装だが、浅溝はそれを注意することはなかった。派手な服装という欠点よりも、彼女の能力の高さに瞠目していたのである。 「始めるか。入館に手間取っているのかもしれない」  総理大臣は、言葉を続ける。 「今日君たちに来てもらったのは、分かっていると思うが、新しい宣言の話だ」  浅溝と雫森は、居ずまいを正した。 「第五次は、これまでとは全く異なるものにしたいと思っている。私が今、頭の中にある素案が、はたして実現可能かどうか今日は話し合ってもらいたいのだ」 「どんな内容ですか」  浅溝は総理に訊いた。 「国民に沈黙してもらう。感染のもとになっている飛沫を、口の中に封じ込めるんだ」  それを聞いて、浅溝の角張った顔の色が一変した。彼は明らかに困惑していた。  しかし雫森は違った。目を伏せて考え込むような態度を取った。  ……総理が少し話をしただけで、国民に沈黙してもらう前に、この部屋が早くも沈黙に支配されてしまった。  その時、扉が開いて一人の男が入ってきた。 「遅れてすいません」  村越優也。早朝に見ず知らずの内閣府からのモーニングコールで叩き起こされ、何とかこの部屋まで辿りついた若き社会学の助教授。彼は安っぽいペラペラの紺色のスーツを着ていた。不織布マスクも使い古されているのか、くしゃくしゃだ。  彼は、どうしたらいいのか分からないような顔をして、出入り口に立ちすくむ。 「おお、来たか。君が言い出したことだ。責任は取ってもらうよ。こっちへ来たまえ」  村越は、すごすごと歩き、申し訳なさそうに総理の隣りの席に座った。 「こちらにいるのは、内閣府の人間だ。君はこれから、この人たちとチームを組んで、新しい宣言を作っていくんだ」 「僕がですか……。しかし僕も、いろいろと忙しいので」 「なんだ。やらないつもりか。報酬は出すぞ。ボランティアをお願いしている訳じゃない」 「は、はあ……」 「分かってるよ。思い付きってのは方便で、本当はけっこう考えてるんだろ」 「ま、まあ……」 「自分の考えていることを実現化するチャンスだぞ」  だしぬけに雫森が顔を上げた。実現化、という言葉に反応したのかもしれなかった。 「すいません」 「ん? 何だね。雫森君」 「実現できると思います。いえ、実現させます。総理が、お考えになっていることが実現化すれば、百パーセントとはいかないまでも、経済はちゃんと回るんですよね?」 「そう。その点なんだ。私がこの村越君の提案を採用しようと思ったのは」 「分かりました。明日までにわたしが素案をまとめます。そこの学者君と相談して。こんな人がアドバイザーになってくれるなんて心強いわ」 「な、なにを言い出すんだ、雫森さん」  浅溝は驚いて、思わず大きな声を上げた。  雫森はそれを、まるで聞こえていなかったかのようなふうで、言葉を続ける。 「こんなテーブルに何も置けない、メモ帳しか使えないところで、議論しても非効率です。時間も長くなるし。それよりまず、わたしが叩き台を作って、それを基に議論を推し進めた方がいいと思います。いかがですか? 総理」 「……いいよ。それでいい」 「局長。わたしはこれで失礼します。徹夜になるかもしれないから……。学者君、行くわよ」 「あっ、ちょっと待って。僕はまだ承諾――」  雫森と村越は、そそくさと執務室を出て行った。  後に残ったのは総理と浅溝。嵐が去ったような静けさになった。 「いやいや凄いね、彼女は。さすが局長の選択だ」  総理は、あごに手をやりながら言った。 「あんな感じなんですよ。ふだんも」 「頼もしいじゃないか。最初、あの格好を見た時は、イキのいいという言葉を局長が勘違いしたのかと思ったよ。入府して何年目?」 「ええと……五年目ですかね」 「そうか。持ってる能力というのは、経験年数とか関係ないのかもしれんな」  浅溝は立ち上がって、深々と礼をし、執務室を去った。  総理はソファーにもたれて、目を閉じる。この小会議のために、午前中のスケジュールを押さえてあったので、思いがけず時間に余裕ができた。彼は、昨夜からほとんど寝ていないことを思い出し、大きなあくびをひとつすると、短い眠りに入った。
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