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海の内に潜る夢を見た。苦しみはなく、水圧も浮遊感もない海の中は、夜の空や、瞼の裏側と大差なかった。ただ土岐子は、ゆるく閉じた口の端より泡がこぼれては上に向かっているさまを、水槽の中の金魚と照らし合わせて水中だと決めた。海というのは決めるまでもなく、先に土岐子の夢が決めていた。目を閉じながら、土岐子は光が波紋を形作るのを水中から見ていた。誰かの声が聞こえた。土岐子を呼んでいるのかもしれないし、誰かを呼ぶ自分の声かも知れない。はたまた、全く知らない人たちが土岐子とは関係のない場で、土岐子に全く由来しない話をしているのかも知れなかった。ふいに光が強くなる。どうやら、浮上していたようだった。海が急速に白んでいく。土岐子の夢の思考も消えゆく中で、いくつかの水泡が突如浮かんでは消えた。――貝殻を磨く老婆、走り去る高い声、黒子の横のベットリした紅唇――キャンバスに向かう丸い男の背、茶色の手、手を掴む手、掴まれた肩――
「おはようございます」
ゆっくりやすめましたかぁ、昨日案内をし、布団をしいてくれた従業員が、部屋に入ってくる。膳を運ぶ姿は、二時間以上前から起きていたように筋が通っている――少なくとも、低血圧の土岐子にはそう感じた。土岐子の母より少し若いくらいだろう従業員には、頭が下がった。――が、どうやら土岐子は民宿や旅館の親身さは、初日で満喫しきってしまったらしい。既に、休日に望む時間に起きられないこの場がとても理不尽で干渉的に思い始めている自分を感じていた。色の薄い鮭という名の鱒を、眠気しかわからない口で咀嚼している横で、「どうですか、今日はどこか予定あるんですか」「ここ出て向こう、突きあたって左の丘行った先に、ガラス館いうのありましてね。まあ小っちゃいとこなんですけど結構人気でして」などと世話を焼かれては尚のことだった。まさか、食べ終わるまでここにいるのだろうか、一抹の恐怖と怒りを抱きつつ、土岐子は目を閉じながら愛想のいい生返事を繰り返し、みそ汁と茶で硬めに炊かれた飯を飲み下した。食事の終わる三口前くらいに従業員は去った。
記憶の内に浮遊する小片を、このままでは掴み取る事はおろか手繰り寄せることも出来ないだろう。ここでなければならないのに、ここではかなわない。無体な矛盾を打ち消すには、外を散策することが最善だった。まだ膨れた腹を抱えつつ、土岐子は旅館を出て赴くままに歩き始めた。深層意識に訴える為、あえて何も考えないでいた。家屋の連なる道へ出てみたり、脇道へ入ってみたりする。波止場に降りて、海の蒸気を顔に受け、網の上に並びいる魚の干物を眺めた。干物の世話をしていた中年の女性からもらった生の干物をかみしめ、ボート、という形容が似合う程度の大きさの船や、水平線の向こうへ向かおうとする中型の船を目で追った。またそのあちらこちらにて、昨日玄関先で会った学生たちや、全く知らない中年たちが種々の光景を熱心に描きとめているのと行き合う。赤いコカ・コーラの看板だけが残った駄菓子屋を過ぎると、風鈴の音に呼ばれるままに八百屋に似た屋根と柱だけで外と一体の店を冷やかした。風の強度と吹く長さよりも長くリン、と鳴る風鈴の音は冴え冴えとして、いっそ耳に痛かった。その時、甲高い声の塊が、弾丸になって土岐子の背後を一瞬ですり抜ける。それから本体の数人分の子どもがばたばたと通り過ぎていった。土埃を盛大に巻き上げる落ち着きない足音があたりを支配する。はっとしたように、土岐子は彼らを見た。土産もの屋の隣で、老年期にはいる男店主が、いかめしい表情で生成りのだしのきいた肌着と下履きに、紺色の前掛けをかけ、大振りで堅物な自動かき氷機の番をしていた。手前にはラムネを入れたクーラーボックスがどんと置いてある。
子供たちは声を張り上げ、何かしら店主に伝え、またお互いを小突き合っている。突き出した手から、何か受け取る店主の様子で彼らの関係がつかめた。店主は荒い四角柱の氷を削り始める。耐えきれないという風に、うろうろと手を動かしたり、道の反対側へ飛び出したり様々だった。子どもの切符を買えない土岐子には、子供の声はもはや言葉ではなく音でしかなく、挙動は幻のようにしか感じなかった。くすくすというさえずり、忍び笑いの表情をかろうじて判別し理解するのみだ。子供の姿さえ、本当に彼らが近づいてくるまでは見えなかった。店主は発泡スチロールの器に山の様に降り積もった氷の結晶を、日焼けして血管の浮いた両手で押さえ込み、丸めかたちを整える。それからシロップを振りかけると、また氷を上から降らせ始めた。ぽんぽんと手慣れた調子で無遠慮に白い氷の山を整える手をじっと見た。出来上がったかき氷を、店主は子供に差し出した。小さな手が受け取ろうと伸ばされる。子供はうんと背のびして手をのばした。自分の手で受け取りたかったのだ。――土岐子は肉体の土岐子よりももっと遠くへ退き浮遊した。笑顔でかき氷の山を崩す子供はそこにいる子供ではなかった。苺シロップをたっぷりかけたかき氷を受け取る手は、「引かれている手」――土岐子の手だ。土岐子はかき氷を受け取ると、振り返って後ろの人物に笑いかけた。
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