海上のアルファ

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海上のアルファ

 ――ねえ、覚えている――声は脳の裏側に、おびえるように爪を立てた。  土岐子はもう何度も坂を曲がり続けている。大きくくねった道は、曲がった先、ひらけた景色をすぐに彼女から奪ってしまった。下りと上りの坂道だけでなく、車内でカーヴにつられる人体のように、道は左右にも傾いでいる。道の端は間をおかず、なだらかな壁へと姿を変え、木々を茂らせていた。  まるで丼の中をジグザグに進んでいるような心地だ。踏み慣らされたアスファルトと、道の両端に隙間を縫って点在する家屋だけが、この道がちゃんとどこかに通じるものだと示している。道が右に左に大きく振れるたび、土岐子の肌は半身ずつ、不安定に地面に近づいた。  その度、白く感じるほど熱されたアスファルトが土岐子の肌に凄んだ。頭上の陽光は、降り注ぐなどという生やさしいものではなく、ただ膨大な熱を発している、それだけの存在だった。鉄板の上でバーナーにあぶられているという妄想が、空気の煮立つ眼前の景色の様に揺れる。  じりじりと肌から音が立つような心地がした。思わず守る様に両腕を抱きしめた。ノースリーブのワンピースに薄手の上着を重ねた土岐子の装いは、乱反射する熱に何ら対抗策を持たなかった。かさついた痛みが走り、すぐに手を触れるか触れないかの位置にまで遠ざける。砂をまぶした様に肌が乾いていた。気温に反し低い湿気の、カラッとした快晴のためだ。荒んだ肌理から水分が次々蒸発していく。唯一水気を含んでいるのは、大きな帽子に覆われた頭部と、陰った土岐子の顔の表面だけだった。水は顔中まんべんなくしみ出し、顔の凹凸に溜まり、睫毛に水滴を作った。人肌の汗が顎をたどり、首にゆっくりと伝い落ちた時だけ、土岐子は寒気を思い出した。  そうして何度目かのカーヴを、右に曲がり終えると、道は丘の様に盛り上がった上り坂となり、くねった坂道は突如終わりを告げた。坂を上り終えたその向こう側が、上る前から見えた。一本の大きな横一文字の道がひらけている。最後の坂を見上げながら、道というよりもここがこの場所の一番端なのだと土岐子は察した。潮の香りがもう十分にしていた。  坂を上っていくほどに、熱っぽい風がいっそう土岐子の体に絡みついた。風なのに、全く涼しくない。生魚に似た匂いが肌に張り付く。潮風は謎の粘性を持っている。土岐子は自分の肌が汗の乾いた後そっくりの感触になっていくのを感じた。妙な心地よさが、不快感に混ざる。土岐子が坂を上るとき特有の、リズムをつけた呼気を吐き出す口の角は、独りでに持ち上がっていた。  上り終えた途端、大きく息を吐き出した。それは感嘆、達成のよろこびだった。土岐子の目に入るのは、横続きのガードレール、そしてその向こうにある波止場と海だった。砂浜はなく、とっぷりとした濃緑色が薄茶の波止場の向こうで大きく揺れている。そこから風がのってくるのが、波の動きで見えた。土岐子はほんの少し壮大な心地がして、意味もなく、腕を広げてみる。腕を潮をはらんだ熱気が包んだ。しばらくそうして浸っていたかったが、土岐子は広げて五秒も制止しなかった。誰も知りはしないのに、ふいに心もとない恥ずかしさに襲われたのだ。胸の前で手を組むと、ガードレールに沿って歩き始めた。適当に舗装された道は、ところどころ砂利が混ざっている。右手の方に広がる家屋のところなどは、より顕著だった。海の方で視野のほとんどを占めながら、土岐子は目的の場所へと進んだ。ぽつぽつとある家屋の前で、老人たちが何かしている。一人は、簡易の椅子にすわり工具を弄っている。もう一人は、ただ座っている。家はすべて年季のいったもので、窓ガラスは、時々セロテープのようなものが貼られているものがあった。  土岐子は自分の記憶が完全に風化していると思っていた。事実、坂を曲がる時はずっと不安があった。しかし、こうして見ると何も変わっていない。この町に足を下ろすまでのバスでもそうだった。ふとしたときに記憶の匂いが鼻を掠める。土岐子の視界には、老婆がいた。彼女は小さな椅子に腰かけている。地面に白の劣化し、けば立ったビニールシートを引き、その上に大小、形もさまざまな貝殻を並べていた。貝はひっくり返され外のごつごつした面ではなく、内のつやつやした面を露出している。内側は、薄茶に虹色の光をてらてらと纏っていて、怪しかった。大きな貝殻の中には、まれに真珠をのせていた。偽ものか、本物かわからないそれが、風に揺られてころころと貝の中を滑る。値札のマジックの赤は日焼けして薄れていた。日焼けがし、シミの浮いた手が見える。下着のシャツを一枚まとっただけの老婆のしおれた瓜の様な乳房が、重力に沿い垂れ下がり太腿を撫でている。老婆もこちらを一切見ずに、そのうちの一枚を、じっと磨いていた。
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