おいで、イカロス

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「ああ、もうすぐ、成人の儀の時期だね」  扉の向こうの空の色を見て、サキがニアとトゥに目線をよこした。目が合う前に、すいとそらされる。それだけで、何の意図をもった視線か、わかる。 「まあ、うちには関係ないかもね。ああ、ふたりも抱えているんで、大変だわ」  エマが自分で肩をたたきながら、滅入ったように言った。誰に向けての言葉か、ニアはわかっていた。それは、隣のトゥも同じだろう。小さくなったトゥを励ますように、ニアは豆をちぎるペースを速め、次の房へと手を伸ばした。  トゥが飛べなくなって、すでに四年が経っていた。ニアの成人の儀は、ゆうに二年をすぎていた。  ジュリはあれから二年後、成人の儀を終えた。皆が予想していた通り、立派で雄大な翼だった。ジュリはやせ細った顔で、笑っていた。翼に反して、どこか心許ない笑顔だった。  ジュリは昨年、荷運びの途中、嵐に見舞われて、かえらぬ人となった。その時の死亡者には、ユニも含まれていた。  アンリは泣かなかった。遺体さえ戻らず、北の崖に捨てることもできない。嵐の止んだ次の日には、アンリは荷運びをしていた。しかし、夜中に一人で、アンリがユニの飛び立った西の崖を見下ろしていたのを、ちょうど水をくみに出たニアは見つけてしまった。  トゥはあれ以来、めっきり体が弱くなってしまった。種子を失った四翼は弱い。日中起きていられないこともあり、よく風邪をひいた。働き手としての役目を果たさない、トゥへの風当たりは強かった。  ニアはそんなトゥを熱心に看病し、ずっと守ってきた。心身健康であるニアへの風当たりは、トゥへの比ではなかったが、ニアは気にしなかった。  二人でいられたら、それでいい。自分の誇りなど知るものか。そう思っていた。 「成人の儀に出て、ニア」  トゥが言った。静かな声だった。その日、ニアは高熱を出したトゥを看病していた。やっと昼に熱が下がったと安心して、食物をとって室に戻ってきたら、トゥは、体を起こしていた。  まだ寝ていた方がいい、そう体を寝かせようとした時に、トゥは一言、そう言った。ニアは、トゥの顔を見た。にらむといっていい、見方だった。トゥはニアを見返した。瞳は静かに凪いでいた。 「今を逃したら、もう飛べない。だから、出て」 「そんなこと」 「できないなら、ニアなんて、もう、いらない」  ニアの心は、一気に冷たくなった。それは、熱を越えた痛みだと、一拍おいて気づいた。血でも、涙でも、もし心に何かが流れているなら、今ニアの心からはそれが、流れ始めていた。 「いらない。そうだったでしょう。ニア」  トゥは首を振って、ニアをにらんだ。 「ねぇ、覚えている? 『とりわけ、またがない四翼は、ろくなものにならない』って言われたね」  ――覚えていた。だから、ずっとニアはトゥを憎んできた。トゥと生まれたせいで、軽蔑される自分が、嫌いだった。ニアの言葉に、トゥは「ふうん」と頷いた。 「なら、初めて飛んだ日のことは?」  ニアは沈黙した。それは、果てのない無言だった。答えは決まりきっていた。  あの瞬間に、きっと自分たちはすべてを手にしていたのだ。どうして、憎む必要があったのだろう。そのことを、空を失って気づいた。だから、もう何も求めない。求めなくていいのだ。 「私たち、きっと長く一緒にいすぎたのね」  トゥは笑った。疲れた笑みだった。 「ずっと私のこと、憎んでいればよかったのよ」 「そんなこと。トゥ、私は、幸せよ。やっと気づけたのよ」  肩を掴んで言う。目を見つめた。思いをどうしたら伝えられるか、わからなかった。言葉はこれほど正直なのに、トゥの心があまりに遠かった。 「そう。でも、私は、みじめだわ」  ニアののどは、潰れるように引き絞られた。トゥは、言葉を続けた。 「すごくみじめよ、ニア。私は、ニアのお荷物になるために生まれたんじゃない」 「お荷物なんかじゃない」 「決めるのは私。ニア」  トゥは決めてしまっていた。トゥの心にはもう触れられなかった。 「翼、鳴いているんでしょう?」  ニアの背がぶるりとふるえた。ニアの意思に反して、トゥの言葉に応える様な調子だった。同時に、背骨に激痛が走る。対翼の種子のわななきだった。ニアの肩には、もはや片翼はなかった。背は全体がふくれあがって、のびて薄くなった皮膚からは、翼の骨が透けて見えていた。今か今かと破るのを待つ翼を、ニアはずっと押さえつけていた。ふくれて薄くなった皮膚のうちににじむ血と膿を、トゥに隠せるはずもなかった。 「今を逃したら、もうもたない。ニア」  もう何も言えなかった。 「飛んでね。でないと、私はお前を忘れる」
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