カシスオレンジとオランジェット

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*  「おっひさー!」    乱暴に引戸を開閉して、笹本が部室に入ってくる。林は「ちーっす」とラノベから目を離さずに返事をする。いつも通りの光景だ。笹本は数日前まで吹奏楽部のコンクールで忙しく、一カ月近く文芸部に顔を出していなかった。林と俺の二人きりの期間の方が長いはずなのに、三人でいるときが本来の文芸部なのだと、俺はそう思っていた。  「夏休み明けたら文化祭じゃん! 文芸部で文集作ろうよ~」  「いや文集ここ数年作ってないし。それに、林のラノベのプロットと、笹本の激甘な恋愛小説と、俺の――書きかけのを載せても面白くないだろ」  「ねー林聞いた!? って褒めてるの? 絶対小馬鹿にしてるよね!?」  咄嗟に作った人差し指の耳栓を抜けてキンキンと頭の中で笹本の声が反響するから、参ってしまう。林は「僕だってプロットばかり作ってる訳じゃないんだぞ!」と笹本と同盟を組んで俺に反論する。  「文芸部」の活動は多種多様、と言えば聞こえは良いが、実際は各々やりたい放題。  笹本は、恋愛専門のケータイ小説サイトに投稿をしている。笹本の小説を読んだ時、女子高生が好きそうなシチュエーション、顔も性格もイケメンな男子や、恋する眩しい気持ちの表現が全面に押し出されている、生クリームたっぷりのケーキみたいなな恋愛小説だと俺は思った。  林はほとんど部室でラノベを読んでいたが、時々キャラ設定をつくったり、小説を書いているようだった。全然見せてくれず、実際何しているのかよく分かっていない。  「そういう部長は、小説書いてるんですかー?」  俺はというと、幼い頃からずっと本が好きなこともあり、「今まで読んだ本を書いた作家みたいに、物語で人を楽しませたい」といった立派な夢はないが、ただ思いついたストーリーを綴るのが楽しくて好きだった。  自分が好きなことを仕事にできたらとは漠然と考えており、書いては新人向けの小説賞に応募している。しかし今のところ、一次選考も通過したことが無い。  「……書こうとはしてる」  最近、アイデアがあってもなぜか言葉を続けることができない。俗にいう「スランプ」なのか。書いても書いてもしっくりこなくて、だんだんイライラしてきて、データをゴミ箱に押し込む日々。もう何カ月も、一作品ちゃんと完成していない。  「やっぱり恋愛小説書こうよ! 塩谷の話、いつも重いし、暗いし。恋した方がいいよ~楽しいよ~」  今の、『劇甘な恋愛小説』よりよっぽど馬鹿にしてる。  「恋するとさ、世界の色が鮮やかになって、すっごい変わって見えるの! 好きな人のこと考えただけでニヤニヤが止まんなくなっちゃうし、一言話しただけで今私世界一の幸せものだー!ってなるの、本当に!」  「ねー林!」と笹本が謎に林に声をかけるが、集中している彼の耳には届いていないようだった。  「笹本――また好きな人できた?」  「――は!?」  俺の問いに笹本はどんどん赤くなる頬を両手で抑えて、字幕があったら記号が連続している意味不明な音を口から吐き出している。黒い瞳がうろたえる。  「な、何でわかったの!?」  「『好きな人のこと考えただけでニヤニヤが止まんなくなっちゃう』って言ったの笹本だろ?」  「私、そんなに顔に出てたか……」  項垂れる笹本。似たようなやり取りがこの部室で行われたのは、もう三回目だ。  好きな人ができては数か月後に玉砕、思いっきりへこむが、しばらくしたら立ち直り、また新しく好きな人ができる。笹本の恋愛はまさに波乱万丈だ。それなのに不思議なことで、未だに笹本は一度も彼氏ができたことがない。  今度は吹奏楽部副部長のクラリネット奏者だと、聞いてないのに笹本が勝手に話し始めた。指の動きが綺麗なのだと、嬉しそうに、まるで周囲に花をポンポン咲かせながら笑う笹本を、俺は共感し難いなと心では遠目で見ていた。  一度、笹本が語るような、見える景色がガラリと変わるような恋をすれば、俺でも恋愛小説を書けるようになるのだろうか。  そもそもそんな恋に、意識したことのない感情に、一番最初にどうやって気付くことができるのだろうか。
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