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『ねえ、覚えてる?』  というフレーズから始まる手紙が届いたのは、いつものように仕事に疲れて帰ってきた晩春の、とある日のことだった。  今日も帰りは終電になってしまった。  夕飯は会社でパソコンを睨みながら頬張ったおにぎりふたつだけ。それでも、空腹を感じないから不思議なものだ。 (早く風呂入って、着替えて寝なくちゃ)  そして、また朝五時に出ていかなくてはならない。  うんざりと思考しながら、秋留(あきる)はスーツのままベッドに倒れ込む。仰向けになり、先ほど取ってきた郵便物をチェックする。どうせ大したものが届くわけもないと、わかっているが。  茶色い大きめの封筒が請求書の入った封筒に混じっており、秋留は思わず他の封筒を床に置いてそれだけをまじまじと見つめた。  なぜなら、差出人が母親だったからだ。  秋留は大学生のときからひとり暮らしをしているし、当然母親は秋留の携帯電話番号もメールアドレスもラインも知っている。用があれば、ラインしてくるのが常だった。  それなのに、なぜわざわざ郵便を送ってきたのだろう。  秋留は封筒を開いて、中身を覗いた。すると、そこに入っていたのは白い便せんと黄色い封筒だった。 『過去のあんたからの手紙だってさ。転送するね。中身は見てないから安心して』  それだけが、母の筆致で便せんに書かれていた。 (過去の自分からの手紙?)  全く覚えていなかった。黄色い封筒の表には、幼く拙い字で『瀬尾(せお)秋留 へ』となっていた。昔の自分は、こんな字だったのだろうか。字の幼さからして、小学生ぐらいだろう。  起き上がって、封筒を裏返す。たしかに、差出人のところも『瀬尾秋留』となっていた。  秋留は、逡巡したあとに封筒を開いた。そこに入っていたのは、便せんではなくコピー用紙と思しき白い紙だった。  直筆ではなく、パソコンで打たれた文字だ。 (そういえば……パソコンの授業、小学校にあったな)  その授業の一環で、「パソコンで文章を書いて、未来の自分に手紙を出しましょう」とでもなったのかもしれない。  無機質な活字で綴られた文章は、『未来のぼくへ』という宛名の下の『ねえ、覚えてる?』というフレーズから始まっていた。 『ぼくの夢は、カメラマンになって世界中を旅することです。今のぼくは、それをかなえていますか?』  そんな夢があったのか。叶えるどころか、覚えていなかった。  秋留はため息をついて、手紙を床に放った。    翌朝、いつものように生の食パンを牛乳で流しこんで、着替えて、家を出た。  満員電車に揺られて、向かうのはオフィスビル。  五年も、機械的に同じことを繰り返している。  オフィスに入り、「おはようございます」と挨拶をするとまばらに返事が投げかけられる。  自席に着いたと同時にパソコンの電源をつけ、鞄から取り出したエナジードリンクを開けて一気に飲む。いつからだろう。こうしないと、仕事にとりかかれなくなったのは。  パソコンが立ち上がり、デフォルトのログイン画面に移る前に写真画像が開かれる。写真はランダムで選ばれたと思しき、どこかの岩山の写真だった。 (世界中を旅するカメラマン……か)  見たことも忘れた夢が、脳裏にこびりついていた。    午後に、こっぴどく上司に叱られた。明らかに秋留のミスだ。文句は言えなかった。  ミスしたことを引きずりながら、秋留は帰路についた。  帰るなり、スーツを脱ぎ捨ててベッドに寝転がる。風呂に入らねば、と思うのに体が動かない。  別に、この毎日でいいと思っていた。やりたいことも夢もなかったから。なのに、あの手紙を目にしたせいで今の自分はこのままでいいのだろうか、という疑問が湧いてきた。 「……やって、みるか」  どうせ、このまますりつぶされるだけの毎日だ。旅先で死んでも、どうでもいい。  心が折れた、のではない。もう、折れていたのだ。ただ今日そのことに気づいただけの話で。  そう考えると、いやに思考がすっきりと晴れた。
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