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4
オレンジさんの最寄り駅は、東京の隅に位置するとある駅だった。なんと、秋留の地元である。
夜についでに実家に顔を出してもいいな、と思いながら秋留は久方ぶりに日本の電車に揺られていた。
待ち合わせをしていたカフェは有名チェーン店で、秋留が高校生の頃はまだなかったはずだ。
カフェに入り、カウンターに向かってホットコーヒーを注文する。コーヒーを受け取ったあと、首を巡らせるとオレンジ色のセーターを着た女性が目に入った。
オレンジ色のセーターを着ていくと言っていたので、彼女がオレンジさんで間違いないだろう。
文章の感じと齟齬のない、穏やかで繊細な印象を与える女性だった。髪はダークブラウンで、背中の真ん中あたりまで伸ばしている。そしてなぜだか、既視感を覚えた。
彼女の座るふたり席に近づき、テーブルにコーヒーカップを置く。
「えーと、オレンジさんですか?」
「そうです! 秋留さん?」
秋留はネットでも本名を使っていた。ハンドルネームを使う必要性を感じなかったからだ。
「オレンジこと橙木萌といいます。橙の木に、萌えるの萌って書きます」
オレンジさんの漢字を聞きながら、秋留はふとまた既視感がよぎったことに気づいた。
「はい。今日は、どうも……」
秋留は頭を下げながら、椅子に座った。
「でも、どうして急に会いたいと思ってくれたんですか?」
直球で質問をぶつけると、萌は目を伏せた。
「覚えてない? 私たち、小学校で一緒だったの」
いきなり敬語を取り、萌はそう告げた。
「…………ああっ。と、橙木さん!」
小学五年生のとき、たしか同じクラスだった。萌はしっかりした優等生で、委員長を務めていた。
「僕のことは、覚えてたの? ああ、そっか。本名でやってたから」
「うん。すぐに思い出したし……瀬尾くんのことは、よく覚えていたの」
萌はためらったように目をそらしたが、すぐに思い直したのか秋留をまっすぐに見つめた。
「未来への自分の手紙、覚えてる? パソコンの授業でやったの」
「ああ、うん。覚えているというか、届いて思い出したというか……」
「実はね。瀬尾くん、あれを白紙で出してたのよ」
「……はっ?」
驚きすぎて、口に含んだコーヒーを危うく噴き出してしまうところであった。
「私は先生に頼まれて、クラス全員分の手紙を集めて先生のところに持っていかないといけなかったの。放課後、誰もいない教室で集め終わった封筒をきれいに並べ直してた。そしたら瀬尾くんの手紙が目に入って……。瀬尾くん、封もしてなかった。だから、悪いとは思ったけど開けたの。出てきたのは白紙だった」
「…………」
秋留は驚きすぎて、何も言えなかった。
しかし、納得した面もあった。秋留はこれまで夢を抱いた覚えがない。忘れていただけだと思っていたが、あれは秋留が見た夢ではなかったのだ。
「じゃあカメラマンになって世界中を旅する……っていう夢は、誰の夢? 誰の夢でもなかった?」
「あれは、私の夢だったの」
ぽつりと、萌は呟いた。
「先生が白紙を見たら再提出って形になるでしょ。瀬尾くんはそれを嫌がりそうな気がして……。私がパソコン室を使って、あの手紙を打ったの。時間がなかったし、他に思いつかなかったから、自分の夢をそのまま書いちゃったの。『わたし』を『ぼく』に直して。勝手なことして、ごめん」
それでは、あれは萌の夢だったのか。真相がわかって、秋留は息をついた。
「だから、たまたまネットで秋留くんのブログ見つけたときはびっくりしたの。あの手紙は郵便局頼んでおいて、私たちが二十七になったら発送されることになっていた。それで、ピンときたの。瀬尾くんは、手紙に書いてあった夢を実行しているんだって……」
「その、橙木さんのほうは夢はどうなったの?」
実は萌は、既に名のあるカメラマンだったりするのだろうか。だとすると、カメラ素人の自分が撮った写真を褒めてもらったのが気恥ずかしくなってくる。
何気なく尋ねると、萌の顔が強ばった。
「私、母子家庭でね……。高校のときに、母が倒れたの。一命は取り留めたけど、後遺症が残っちゃって。それ以来、ずっと働きながら介護してて……」
とても、旅に出る余裕なんてないのだろう。秋留は口をつぐんだ。
「だから、私……嬉しかったの。まるで瀬尾くんが、私の夢を代わりに叶えてくれてるみたいで。ブログにコメントして、交流するのも楽しかった」
萌は涙を浮かべながら笑い、フラペチーノを啜っていた。
「そう……なんだ」
秋留は言葉を探して、ようやくあのことに思い至った。
「実は、僕のブログをまとめて書籍にしないかって打診が来たんだ。今、打ち合わせとかしてるところでさ……」
「本当!? すごい。本当に、カメラマンになるって夢も叶えちゃったんだ」
「はは。カメラマンとは、少し違うかもしれないんだけど」
「本が出たら、また旅をするの?」
「そのつもりだけど……本の印税だけじゃ足りないだろうな。だから、仕事を探してしばらく働くつもり。それである程度貯まったら、また行こうと思ってる」
だから、と続けかけて秋留は止まった。
いつか一緒に行こうか、なんて残酷なことは言えなかった。
代わりに、秋留は言葉を選ぶ。
「またブログもツイッターもインスタも、更新しながら旅するからさ。一緒に旅してる気分になってくれたら嬉しい」
まるで告白のようにそう申し出ると、彼女はまた涙を浮かべて微笑んでくれた。
(了)
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