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忘れた。
「ねぇねぇ、太一。これ、覚えている?」
私が尋ねると、決まってあなたは。
「忘れた。」
と答える。
学生の頃から変わらない口癖、そして彼なりの照れ隠し。恥ずかしい事や本音を隠した時によく使うのだが、身体は正直なもので、大抵言った後に耳を真っ赤にする。
結婚した今でもそう。素直になれない彼は今日も言う「忘れた」と。
「ねぇ、プロポーズの言葉って覚えている?」
「わ、忘れた……。」
「えー、まだ1年も経っていないのに?」
私はそんな彼が愛おしかった。
娘が生まれ、育児と仕事で私たちはすれ違うことが多くなった。
「あなた!子供が生まれたら煙草は辞めるって言っていたでしょう!」
「そんな事、忘れたよ!お前は俺の楽しみにまで口を出すのか!」
高校生になった娘が反抗期を迎え、大げんかした翌朝。
「お父さん……その……昨日は……。」
気まずそうに話しかける娘に、あなたは新聞を広げて。
「何のことだ?忘れたな。」
そう言って逆さまの新聞を捲る。目の下の隅に赤い耳。昨日叱りつけた後、たくさん後悔して寝付けなかったの知っていますよ。お疲れ様です、あなた。
あなたは定年退職を迎える年。結婚して40年になるこの日。私は玄関で見送りついでに聞いてみた。
「お父さん。今日…何の日か覚えていますか?」
「……忘れた。」
予想は出来ていた。期待は……少ししていた。この日くらいは覚えていてくれるだろう、と。すっかりくすんでしまった指輪を撫でていると、あなたは早足で出て行ってしまった。
私はやるせない思いをなんとか飲み込んで、洗い物を済ます為にリビングに向かう。と、テーブルの上に見慣れない花瓶と赤いチューリップ。
――今は貧乏で、指輪も買えないけど……一生かけて君を幸せにします!お、俺と結婚してください!――
40年前のあの日。そう言ってプレゼントしてくれた、私の大好きな花……。
「本当に……変わりませんね、あなたは。」
私は目頭が熱くなり、我が家の天邪鬼からの贈り物をそっと撫でた。
「色々な事がありましたね。あなた、覚えています?」
娘が結婚し、孫も生まれ、この上ない幸せの中にいる。はずだった。
「……。」
あなたは今日もベッドで横になり、虚ろな目で窓の外を見る。
夫の認知症が発覚したのは、定年退職から1年ほど経った頃。段々と物忘れが多くなり、食事をしたことを忘れ、一人で着替えることすら難しくなってしまった。
毎日夫に話しかけているが、最近は碌な会話も無い。私も年齢的に一人で介護をするにも限界がある。娘を手伝いに来てくれるけど、いつまで続くかも分からない夫の介護に娘たちの貴重な時間を使わせるのは気が引けた。
そんな折、娘の夫が介護施設のパンフレットを持ってきてくれた。週末に夫を連れて見学に行く予定だ。良い所ならお世話になる事も考えている。
「ぁ……ぅ……。」
「あなた、どうかしましたか?」
ふと、夫が窓の外を見て口を動かした。消えそうな声。私は声を聞くためベッドに身を乗り出し、夫の口元に耳を近づけた。そこで目に飛び込んできたのは庭の花壇に植えたチューリップだった。夕日に照らされ、輝いて見えた。
「あり……がと、う……。」
「……え…?」
チューリップに見惚れていた私に、夫は囁く。一瞬、耳を疑った。
「あな、た……今……今、何て……?」
長らく聞かなかった夫の言葉に、私は驚きを隠せず、夫の顔を覗き込んだ。すると。
「……忘れた。」
そう言って再び窓の方を向いてしまった夫。その耳は真っ赤だった。
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