あったかいくじらの舌

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あったかいくじらの舌

 少し、思い出話をしましょう。  あなたは、とても言葉を覚えるのが早い子どもでした。  初めてあなたが自分の名前、つまりわたしを、紙に書き記した瞬間のことを、わたしは今でも忘れてはおりません。  それはまだ、桜が咲くよりも早い頃も夕暮れどきでした。  関節の部分を細い糸で括ったような、ふくふくとした白くちいさな指が、父親から買い与えられた六十色のクレヨンセットの中から選び出した、やわらかなオレンジ色。  明るい色のフローリングの床に敷かれたクリーム色のラグの上、散らばる白い画用紙は、うっすらと毛羽立っていました。  それは、あなたが絵本で読んだ「くじらの舌」、ちょっとざらっとしていてあたたかな感触のそれのイメージそのままに、あなたの握るクレヨンの先を受け止めます。  ×  ×、  一文字ずつ、ひともじずつ、ゆっくりと。  ×、  ×、  ……  ああ。  南向きの窓から差し込む日差しと同じ色をした、わたしの姿がそこにありました。  ああ、なんて、あたたかい。  わたしは全身で、その日差しとあなたの眼差しを吸い込みました。  はじめまして。はじめまして。  見つめ返すわたしの視線を、あなたが感じとることは決してない。それは分かっていました。  それでも、どこかで。  無意識のさらに隅の隅の隅の隅でいいから、あなたに知っていて欲しかった。  わたしは、あなたのために生まれたもの。  あなたのためだけに存在するものが、この世には確かにあるのだ、ということを。
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