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あき 大学3年生
…目が覚めると見慣れない天井があった。
植物を編んだような天井にシーリングファンがゆったりと回っている。
なんだかずいぶん昔の夢を見てしまった。
夢の中で、この人が好きだなぁと思った時の、胸の重みがまだ残っている。
自分がどこにいるのか少しの間わからなくて、シーリングファンの羽をしばらく眺めていると、少し離れた所から人の気配がして、見ると小さな部屋の反対側のベッドでまゆちゃんが難しい顔をして眠っていた。
ああそうだった。
まゆちゃんと旅行に来ていたのだ。
まゆちゃん限定の走馬灯のような長い夢だったな。
そう思ってから走馬灯の響きに不安を感じて打ち消すように思わず頭をふった。
高校を卒業した後、地元を離れて進学した私は、大学の友達とのつきあいやアルバイトで忙しく、地元に帰らない2年の間に、まゆちゃんとは時々電話やメールで近況報告をする程度になっていた。
それが今年の夏休み前「そっちに行く用事があるから久しぶりに会わない?」と電話をもらったのだ。
久しぶりの再会にウキウキと会いに行くと、先に待ち合わせ場所に着いていたまゆちゃん
が私を見つけて、おーいと両手を振った。
適当に入ったカフェで、薄くて渋い紅茶を飲みながらひとしきりお互いの近況報告をした後「目の病気になっちゃってね。だんだん視力が落ちて来てて…あと半年位で見えなくなるんだぁ」とまゆちゃんは困ったように笑った。
私が驚いて固まっているのに、さっさと話を進める。
「それでね、あきが去年バリ島に行った時の話がすごく楽しそうだったから、私も行きたくなっちゃって。目が見える内に行ってみたいんだよー。だからさ、一緒に行ってくれない?あきと一緒なら安心だし」
ね、お願いと手を合わせた。
目がもうすぐ見えなくなる。
という割にまゆちゃんが明るすぎて不安になった私が「ねぇ、本当は死ぬような病気なの隠したりしてない?」大丈夫だよね?と思わず聞いたら「ちょっと!怖い事言わないでよ!目が見えなくなるだけだよ!」と怒った。
ホッとして「じゃあ夏休み2週間くらいならバイト休めると思うし、行っちゃおうか」と私が言うと、鼻の頭にシワを寄せて、やったー!とテーブルの下で足をパタパタさせて喜んだ。
8月にバリ島を訪れた私達は、海沿いのリゾート地と違い、田舎ののんびりとした田園風景の広がるウブドという街に滞在して、そこからあちこちを回った。
海で山で街で、いろいろなものを一緒に見た。
恐ろしいほど鮮やかな夕焼けや、吸い込まれるような満天の星空、雨を連れて海の上を流れる雨雲、見る間に立ち上がる入道雲、スコールの後の大きな虹。
民族衣装に身を包んだ小柄な女性達や、耳の上にプルメリアの花をさして道端でお喋りしてるおじさん達、いたる所で神様に供えられた花や香、もち米をバナナの皮で包んで蒸したもの。
牛や鶏の声に起こされ、供えられたお香にいい香りだねと言いながら明け方から散歩をした。
散歩の途中にバリ人同士の結婚式に遭遇した時は、結婚の儀式の一つなのだろうか、ひよこが生きたまま首を切られているのを、まゆちゃんは小さくひいぃと変な声をあげながら顔をおおった指の間から見ていた。
全部見ておこうと思って!と涙目で。
カメラはお互い持ち歩かなかった。
「だって目が見えなくなって思い出すのがレンズ越しなんて嫌だし。そもそも写真見れなくなるし!」とまゆちゃんが言うので、私もまゆちゃんにならってカメラをスーツケースにしまった。
カメラを持ち歩かないと手持ち無沙汰になって、時々無性にまゆちゃんと手を繋ぎたくなった。
昨日はウブドのほど近くにある彫刻家のアトリエで、真剣な顔で一つ一つの作品に時間をかけて触れるまゆちゃんを見ていた。
そっと彫刻を細い指先で撫でては目を閉じたり開けたりしている。子供のように短く切り揃えられた小さな爪。手触りと目に映る映像をひも付けているのだろう、目が見えなくなった時触ったものがどんな形か頭の中で見えるように。
生まれた時から見えなかった人がもし突然見えるようになったら、やっぱりこの世界をこんな風に真剣に見るのだろうか、と思う程真剣な顔をしていた。
最初から見えていない人をことさら気の毒に思うのは、猿や犬が人間をかわいそうに思うのと同じかもしれない。もちろん不便なことはたくさんあると思うし実際は猿も犬もそんなこと思わないのだけれど。
人間は雷より大きな音は聞こえないし、虫の声だって人種によっては聞こえないらしい。
聴こえる周波数の外側は無音と一緒だ。不足していることにも気付かずに生きているし、生きていけるものだ。
だけど、と思う。
自然の綺麗さや怖さや、自分がとるに足らない小さいものだと、生まれた時から目が見えない人はいつ感じるんだろうか。
そして自分が小さいものだと知ったあとに見えなくなるのは、とても心細くて怖いのではないだろうか。
私たちの予算では泊まるのは無理だからランチだけでもと、映画に出てくる様なホテルのテラスで食事をしていた時だ。
先ほど降ったスコールが霧になって立ち上り、景色全体を青く見せていた。バリの風景画によくあるが、あれはああいう表現なのだと思っていた。まさか写実だったとは。
まさに絵の様な景色を前に、まゆちゃんがずっと目を細めたままなので、見えているのか心配になった私が「ねえ。もっとパッチリ目をあけて見なよ」と言うと「ちゃんと見えてるからほっといてよー」と怒った。
最終日の前夜、私のベッドの上で街の小さなお土産やさんで買ったお酒を飲みながら話していると「なにもかももう見納めだと思うとねー」とまゆちゃんが言った。
そうか、まゆちゃんはずっと困っているのだ。
目を細めた横顔を思い出す。
やっぱり、かわいそうにと思ってしまう。
もうすぐ目が見えなくなるなんて、かわいそうに。
でもかわいそうなのは私の方かもしれない。
まゆちゃんにとっての猿のしっぽを私はきっと持っていない。
しかもなにが足りないのか気づいてもいないのだ。
でもまゆちゃんは私に足りないものをわかっていても、私をかわいそうなんて思わないだろう。
何も言えないでいると「21歳か、女のピークだね。あきの一番綺麗な時を憶えておいてあげるからね」とまゆちゃんが言った。
「ちょっとやめてよ。こっからずっと下り坂みたいじゃん」慌てて言うと「今すごい面白
い顔してたよー。その顔しか思い出せなくなりそう」と言いながらずっと笑っていた。
バカみたいに笑っているまゆちゃんを見ながら、涙が出ようとしてるのか引っ込もうとしてるのか、自分でもよくわからない。
翌日、夜の便で帰国する前に風が見たいと言うまゆちゃんを連れて、ウブドの高台にあるカフェにいた。
前に「ウブドのカフェで遠くから渡ってくる風が見えたんだよ」と私が話してたのを覚えていたらしい。
そのカフェは、通りに面した入り口からはわからないけれど、店の奥のテラスまで行くと、眼下にジャングルがずっと遠くまで広がっている。
バリの建物らしく、テラスには石造りの柱と手すりの他は壁も無い。
まゆちゃんは、テラスの端にある花の彫刻を施された石の手すりに手を添えてしばらく黙って景色を見ていたが「あ、あれでしょ!わぁほんとだぁ。風があっちに流れてるの見えるね!」どこまでも続くジャングルと空の境目を指差して振り向いた。
まん丸の目。
その顔を見て、ふいに私は数日前に見た夢を思い出した。
叩かれている私と目が合った時の引きつった顔、叩かれなくなった理由を聞いた時のまん丸の目。あの頃流行ったピンポンダッシュと、叩かれなくなったのと時期を同じくして犯人が見つかまらないまま収束していったピンポンダッシュ。
「…ねぇ、ねぇちょっと。もしかして、ピンポンダッシュしてたの、まさかと思うけど…まゆちゃん…?」恐る恐る聞くと、まゆちゃんは一瞬びっくりした顔をした後、鼻の頭にしわを寄せて「えへへ」と笑った。
そして「カムフラージュに結構あちこちでピンポンダッシュしてやったんだ!」と言った。
小学校でプリントが配られる程?信じられない。何をしてるんだろうこの人は。
「信じられない!」と声に出して言うと「だってぇ。あの時あきを置いて自分だけ逃げてさー。約束してない日はすごく心配だったし。でも聞けないじゃん。見られたくなかっただろうなと思ったし。私が逃げた日はたまたまインターホンが壊れてて…そんで見ちゃったんだけど、あの後遊ぶ約束出来なかった日、もう直ったかな?って思わず押しちゃって…でも怖くて逃げて。それが最初」と一気に言った。
そして申し訳なさそうに肩をすくめ「体育の着替えの時に、こっそりあきの背中見てたんだ。赤い跡がつかなくなったから、もう大丈夫なのかなと思って…」と小さな声で言うと、そっと笑った。
「小5でピンポンダッシュって、まゆちゃん…」てっきり低学年の男子のいたずらだと思っていた私は、小5のまゆちゃんがこそこそと一人ピンポンダッシュしている姿を想像して、その滑稽さに気の毒になった。
「違うよ。小5だったからだよ。ピンポンダッシュ位しかできなかったんだよ、こどもだったから。大人と戦うには小さかったんだよ。わたしも」と、小さな弟を守るお兄ちゃんの様な生真面目な顔をして言った。
我ながら本当に嫌になるが、こういう時になんて言ったらいいのかさっぱりわからない。
でも自分を親から助ける為にピンポンダッシュをしてくれた友達にかける言葉は、ただ「ありがとう」なんだろうか。そうじゃないだろうという気がする。
「まゆちゃんが好き」
何を言おうか迷っている内に、勝手に口が動いた。
自分に驚いていると、まゆちゃんは笑って「私も好きだよ。小学校で初めて会った時からずっと、ずっと大好きだよ。あき。ここに連れてきてくれてありがとう」と言った。
私は自分が言いたい言葉もわからないのに、まゆちゃんは私が言って欲しい言葉までわかるのだろうか。
嬉しさと情けなさで途方にくれていると、まゆちゃんが「あ!」と大きな声をあげた。
「あき、風がこっちに近づいて来てるよ。ほら、あそこ。来てる来てる…もうすぐ……あれ、思ったよりゆっくりだね…あー広いからかぁ…あ、来るよ来るよ…ほらぁ…来た来た、来たーー!」お世辞にも綺麗とは言えないくしゃくしゃの笑顔でぎゅっと目をつむると、風を抱きとめるように両手を広げた。
「…あぁ、気持ちいい。風はやっぱ目を閉じた方が感じるねー」
深呼吸をしたのだろう、胸が膨らみ、顎が少しあがる。
私も隣で目をつむった。
風はジャングルの上を渡ってきたはずなのに、どこで拾ったのか香とスパイスの混ざった甘い香りがする。
カフェでかけているラジオから女性が歌うインドネシア語の歌が小さく聴こえる。
風も香りも音楽も、目を閉じた方がずっと鮮やかだ。
急に、その世界もいいんじゃないか、と思った。
一緒に行きたいくらいだ。私より少し小さな手をとって。
私は、まゆちゃんの新しい世界が、いつも満ち足りていますようにと真剣に、無責任に願った。
「ほんと、そうだねー」と相槌をうちながら、まゆちゃんが目を閉じている短い間に急いで涙をふく。
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