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あき 高校1年生
広くすっきりと片付いた、適度に陽射しの入る明るいリビングは、写真で見ればきっと居心地良さそうに見えるだろう。
部屋の中央にレイアウトされた大きなL字型のベージュのソファに、母は脚を斜めに流して浅く腰掛けていた。
姿勢よく座っている母に、高校に入って最初の期末テストの答案を渡す。
母は飲んでいた紅茶を音を立てずにテーブルに置き、ざっと点数だけ見ると「猿から見たらあなたなんて可哀想だと思われてるわよ?」と答案をテーブルに放った。
一体なんのことかと不思議に思っているのが顔に出ていたのだろう、母は眉根を寄せて「だから!あなたは自分が頭が良いと思っているかもしれないけど、猿から見たらしっぽも無い可哀想な動物だと思われてるわよ!あなたが気付いてないだけで!」とヒステリックに声を荒げた。
なんだかさっぱりわからないけれど、かなり頑張って察するに、うぬぼれるなと言うことなんだろうか。
「うん、頑張って勉強してやっとこの点数だよ。クラスの子で全然勉強しないのにいつも100点の子がいて、すごく頭が良いの」と私が言うと、肺に残る空気を全て吐くような長いため息をついていた母は、ゆっくりと顔をあげた。
そしてとても満足そうな顔で「そうなの。その子すごいわね。やっぱり頭の良い子は違うわね。」と笑うと、おやつがあるから着替えたら来なさいとキッチンへ戻っていった。
ふふ、と思わず息が漏れる。
危ない危ない。お母さんに聞かれたら「あなたはまたそうやって人を馬鹿にして!」と怒られるところだ。
別に勉強の出来ない子を見下したりしていないし、全国模試ではそれほど上位というわけでもないのだけれど、私が良い点を取ると母は自分が見下されてると感じるらしい。
自分の部屋に戻って、脱いだ制服をハンガーにかける。
すぐにリビングに降りていく気になれず、デスクに座って頬杖をついた。
口癖のようにお菓子があるわよ、とは言うが、お菓子なんてもう何年も出て来ていない。
目をあげるとちょうど窓の外の木に、尾の長い小さな鳥が止まったのが見えた。背が黒く腹が白い、セグロセキレイだ。尾をしきりに上下に振っている。
猿のしっぽか。
さきほどの母の言葉を思い出す。
猿にとってしっぽは無くてはならないものだ。
木にぶら下がったり歩く時にバランスをとったり。木になっている果物をとったりも出来るのかもしれない。しっぽを持たない人間は、木にもぶら下がれず動きも緩慢で、ジャングルなら出来損ないだと思われるだろう。しっぽの無い猿は群では生きにくそうだ。かわいそうに。
胸の前で両手を組んで、裏返してから頭上にあげる。そのまま背もたれにもたれて、うーん、と伸びた。
でもしっぽなんて元々無いから不便でも無いし、あれば便利とも思わない。
でももしかしたら犬も、と思う。
人間はあんなに鼻が鈍くてどうやって生きていくんだと思ってるかもしれないな、と少し愉快な気持ちになる。
「昨日はお母さんに怒られちゃった」
学校へ向かう道で合流したまゆちゃんが困ったような顔をして言った。
まゆちゃんは眉尻が下がっていて、笑っていても困ったような顔に見える。
まゆちゃんが小学3年生の春に引っ越してきて隣の席になってから7年。
本当に困っている時は目を細める癖があるのを私は知ってる。
目の下を持ち上げるような細め方。
今まゆちゃんは少しだけ目を細めているので少しだけ困っているのだろう。
「どうした?」と聞くと「期末テストが返ってきたからだよ!」早口で言うと、細くなった目を更にぎゅうっと絞るように細めた。
…少しだけじゃなかったみたいだ。
「大丈夫?それ前見えてる?」と言うと、無言で叩かれた。
「私も怒られたよ」叩かれた腕をさすりながら言うと「あ〜、あき点数よかったんだ〜」とまゆちゃんは隣を歩く私を見上げてうらめしそうに言った。
「点数が悪くて怒られるなんて愛情があっていいじゃん。うちの親も怒ってたけど何言ってんのかわかんなかったよ。あれ多分自分でもよくわかってないよ」と私が言うと「でも点数が悪い上に怒られるんだよ!あきは点数は良いんだからいいじゃん。結局最後は自分の力で生きてくんだからさ、親に怒られても点数が良い方が良いよ。今後のより良い人生のために!」と胸の前で拳を作った。
まゆちゃんは折に触れて(もうすぐ自分の力で生きていけるようになるよ)と私を母から解放し、励ましてくれる。
軽口にまぎれさせて。
学校の門が見えてきた。
私はいつもそうするように、励ましに気付かない振りをして「じゃあ一緒に勉強頑張ろっか。より良い人生のために」と言うと、まゆちゃんは「それもやっぱやだぁ」と鼻の頭にシワを寄せて笑った。
話しながら子供のいない夫婦がしているパン屋の前を通り過ぎる。
焼き立てのパンの美味しそうな香りがする。
その隣にはおじいちゃんが一人でしている自家焙煎のコーヒー専門店があるが、この時間はまだ営業していないので残念ながらコーヒーの香りはしない。
店が開いていたら香りだけでモーニングの気分が味わえるのに、と毎朝思う事を今日も思った。
パンの香りのする空気を深く吸う。
そうすると自分の呼吸が浅くなっていた事に気づく。
「はーいい匂い!お腹すいてきた!」とまゆちゃんがお腹をさすっている。
「早いよ」
笑ってもう一度深呼吸をしたら、体が軽くなった。
小学5年生になりクラスがかわっても、私たちは一番の友達でいつも遊んでいた。
ある日、まゆちゃんが約束せず突然遊びに来てくれたが、その日は母が仕事が休みで、さらに間の悪い事にちょうど裸の背中を母にものさしで叩かれている所だった。
母は私を叩くのに夢中で、まゆちゃんには気付かなかったけれど、あの時、母がまゆちゃんに気づいていたらどうなっていたのだろうかと時々想像してはゾッとした。
きっと追いかけて追いつめて、何も見なかったと泣きながら言うまで帰してはもらえなかっただろう。
優しく温かな両親に育てられたまゆちゃんには、きっと耐えられなかっただろう。
まゆちゃんはその後も何も言わなかったし、私たちは変わらず遊んだ。
ただ、まゆちゃんはあれ以来「あきちゃんのお母さん優しそうでいいな」とは言わなくな
った。
今はもう叩かれることはなくなったけれど自分の事をまるで他人事のように感じる、とまゆちゃんに話したのは中学2年生の夏にまゆちゃんの家でお泊り会をした時だ。
「おばさんはさ、なんであきのこと叩いてたの?」
尋ねながら今まさに口に入れようとしていたクッキーを皿に置こうとしたので、食べなよ、と私が言うと素直に口に持っていった。
「初めの頃は何か失敗して叩かれてたと思うんだけど、最後の方は失敗しなくなったから叩かれてたかなぁ」と言うと「なにそれ。じゃあなにしても叩かれるじゃん」と眉間にシワを寄せた。
「でもそれがなんで叩かなくなったの?」
私は少しの間思い出す。
「なんか一時ピンポンダッシュがすごい流行ってたじゃん。小5の夏くらい」と言うと「あーすごい流行ってたね。学校でプリント貰ったわ」腕組みしてふんふんと頷きながら聞いている。
表情は真面目だが唇の端にクッキーの欠片がついている。
あの頃はクラスでもプリントが配られたし、全校朝礼でも校長先生から注意されていたが低学年の男子のいたずらだろうと担任の先生もクラスではあまり厳しく言わなかった。
「叩かれてる時に何度かピンポンダッシュがあって…それでなんとなく叩かれなくなったんだよね。」結局犯人は見つからず、いつの間にかピンポンダッシュもおさまっていったのだ。
まゆちゃんが「へぇ」と腕組みしたまま目を丸くした。
「なんかさ、叩いてる途中にインターホンが鳴るとお母さんがちょっと冷静になるって言うか…玄関から戻ってきてからまた叩かれる事は無かったよ。あの密室がよくなかったのかね。」
「ふぅん…止める人がいないとエスカレートしちゃうのかもしれないねー」
まゆちゃんは少しの間、口を開けて天井を見ていたが「あきがさ、いろんなことを他人事に感じるのは…お母さんから受けた刺激が強すぎたからかなぁ。でもさ、今はまだちょっと麻痺してるかもしれないけど、きっと大丈夫だよ」と背中をそっとさすってくれた。
あまり大丈夫とも思えなかったが、なんだか照れくさくなって「それにしても竹のものさしって昭和って感じだよね」と私が笑うと「ほんとだよ。でもおばさんまさに昭和の人じゃん」とまゆちゃんも笑った。
少し目を細めた、優しい笑顔だった。
まゆちゃんの、笑った顔が好きだ。
小さな温かい手のひらにさすられた背中が、ジンとしている。
胸が甘くつまって呼吸がうまく出来ない。
私は、まゆちゃんのことがもうずっと長いこと好きだった。
色々な事が麻痺している私の中で、これだけは自分の身に起きていることだと実感出来る。
それはぼんやりとした暗闇で手探りに生きている私の内側で、細い細い蜘蛛の糸の様に、ほんのりと外の光を受けて光っている。
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