カラス

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 「親に向かってそんなこと言う子の所にはな!」  私が5才の頃、おばあちゃんが言った。 理由は忘れたが、台所で私が母に「お母さんの馬鹿!」と言った時だった。 同居の父方のおばあちゃんは昔からの言い伝えを、よく私に話して聞かせた。 夜に爪切ったらあかんで。親の死に目に会えへんようになるからな。だとか、食べたあとすぐに横になったら牛になるで。だとか、探し物をする時は、裁ちバサミに糸を巻きながら探すと見つかるんや。だとか、そういう話だ。  うちは今にして思えば古い家で、父やおじいちゃんが出掛ける時には、母もおばあちゃんも必ず火打石を打った。火打石から出る火花は小さかったが美しかった。 おばあちゃんが私を叱るとき、火打ち石の小さな火花をいつも私に思い出させた。 静かだが激しい、一瞬の叱責だった。  「夜中寝てる間に、大きなカラスがその子の唇をつつきにくるんよ!」 それを聞いて、私は震え上がった。  寝ている自分の枕元に音もなく大きなカラスが現れ、頭上から首をかしげ覗き込んでくる黄色い瞳、黒い翼が障子を通して入ってくる仄かな光を反射する。 大きな翼は私の顔から胸を覆い隠し、その内側で私の唇はカラスに食べられる。 昔見た、カラス達に囲まれる死んだ子猫のように。  「ごめんなさい。もう言いません。ごめんなさい」泣きながら謝り、おばあちゃんは「あきちゃん、もう言ったらアカンよ。ほんまにカラスがくるから…」と優しく頭をなでてくれたが、翌朝目が覚めると私の唇の両端は切れて血がにじんでいた。  その日は1日中、笑ったり話したり口をあける度に唇の端が裂けて、本当にカラスが来たのだという恐怖と、昨日の「お母さんの馬鹿」への後悔を何度も私に思い出させた。 それ以来私は二度と、両親に向かって馬鹿などと言っていない。 本当にこわかったのだ。  小学生になり、しばらくすると怖さより不思議さが勝って友人に話してみたりもした。 小学校3年生の頃、私は斉藤君と言う男の子が好きだった。夏休みに転校してしまったのだけど、その後しばらく文通していた。その文通の中で、カラスの話を書いてみたのだ。 斉藤君からの返事にはこう書いてあった。 「それは怖いな。だっておばあちゃんが夜中に切りに来たって事やろ?」 だってカラスが来るわけないもんなあ。と。 私は手紙をそっとたたみ、その上に両手を重ねて置くと、重ねた手の甲に額を押し付けた。じわっと涙が出た。 そうだ。あの朝、血のにじむ私の唇の端をそっとなで、おばあちゃんはうっすらと笑ったのだ。  それから何日かは、おばあちゃんが違う人のように見えた。 学校から帰ると優しく出迎え、手作りのおやつを出してくれたが、皿を持つ手が怖かった。 手の甲に何本もはしる血管のふくらみを、私の爪とは違う、分厚く黄色い爪を見ると、おばあちゃんは本当にこんな手だったかと、ゾッとしたりした。  それでもしばらくすれば、こんなに優しいおばあちゃんがそんなことするはずないと自分で自分を納得させ、そのうちにおばあちゃんを怖いと思った事も忘れていった。 普段のおばあちゃんはゆったりと上品で、学校から帰ってくる私を美味しいおやつを作って待っていてくれた。 おばあちゃんが「こんなん今どきやろ?」とよく作ってくれるおやつは真っ白になるほど砂糖のかかったドーナツで、手作りらしく真ん中の抜いた所も揚げてあった。 甘い油の匂いのする部屋で、母やおばあちゃん、時には遊びにきた友達と食べた。  時々おばあちゃんは私の手を取り、向かい合わせに立った。おばあちゃんのつま先に私の足をのせて「女の子はワルツくらい踊れんとなぁ?」と笑って、ステップを教えてくれた。    好きな男の子の話をすると「優しい男の子がいいで。足なんか速かっても、大人になったら意味ないんやから」とか「賢い男の子にしいや。長い人生、やっぱり飽きひん人と一緒にいななあ」などと、小学生の私にはむずかしいアドバイスをくれた。 おじいちゃんはわたしが5歳になる直前に亡くなったので、ほとんど覚えていない。 でもおばあちゃんや父から聞くおじいちゃんは、とてもかっこよかった。  今年の春、小学6年生になった私は修学旅行へ行った。 1日しおりを見ながらあちこち街中を歩き回ったその夜、灯りを消して布団に入ってから、隣に寝る一番仲良しのことねちゃんと、好きな男の子のこと家族のこと、勉強のこといろいろな話をしていた。 ふと、私はカラスのことを思い出し、話してみようと思った。  「でな、その子、おばあちゃんが切ったんちゃう?って言ってん」その子、とは斉藤君の事だ。 「へえ〜」 「ことちゃんもそう思う?」 「う〜ん、思わへんなあ」 「そうやんなあ」ホッとした。 「うん、だってあきちゃんは、お母さんと寝てたんやろ?おばあちゃんは違う部屋に寝てたんやったら、お母さんちゃう?」 私はビックリして黙った。ようやく小さな声で「そうかも」とだけ言うと、ことねちゃんは違う話を始めた。  これ以上考えるのが怖い。 おばあちゃんもお母さんもそんなことするはずない。わかっているのに、どうしても小石を飲んだ様に胸に引っかかった。 溜息をつく。 こんなことならカラスが来たと思ってた時の方がよっぽどマシだった。  昨日の朝、おばあちゃんが亡くなった。 修学旅行から帰ってしばらくした頃に病気が見つかり、すぐに入院したがもう手遅れで、それから4ヶ月しかたっていなかった。  入院中、とりわけ母は自分がもっと気をつけていればとひそかに泣いていたが、おばあちゃんは「もうすぐおじいちゃんに会えるわあ」とむしろ明るかった。 手術も延命治療も拒否し、徐々に弱っていって、最後の数日は水もほとんど飲まず、明け方家族が見守る中、静かに息を引き取った。 私は花が枯れるみたいだと思いながらその数日を過ごした。  亡くなった後、主治医の先生に「落ち着いて最期まで頑張られましたね。立派な人でした」と言われて、私はまるで自分がほめられたように胸をはりたい気持ちになった。 おばあちゃんの少し笑っているような静かな顔を見ながら、もし唇を切ったのがおばあちゃんだったとしても良い様な気がした。 おばあちゃんなりの愛情だったのかもしれない。  お母さんに聞いてみよう。 あの時私の唇が切れたのは何故だったのか。 カラスは誰だったのか。  今日、自宅でお通夜をし、親戚や遠くから来てくれたおばあちゃんの友達たちも帰って、ようやく和室で母と二人になった。 いや、おばあちゃんと3人だ。 おばあちゃんにかけられた分厚い布団をそっとなでながら「なあ、お母さん」と私は切り出した。  私が5才の頃、お母さんに馬鹿って言った事あったやろ?その時おばあちゃんに「親にそんなこという子の所には、夜中カラスが来て唇をつつかれるよ」って言われて、次の日の朝に私の唇が切れてたの、覚えてる?  母は少し目を見開いて「ああ…そのこと。あなたずっと悩んでたの?」と聞いた。 時々思い出して不思議に思ってた、と言うと 目を細めるようにして私を見たあと「おばあちゃんからいつか話してやってと言われてたのよ」 母はそう言って話し始めた。  おばあちゃんってね、いいとこのお嬢さまだったの。 お父さんもお母さんも忙しくて、お手伝いさんと過ごす時間が長かったそうよ。広いお屋敷で兄弟もいないし、おばあさまもいたけど病気がちで…きっとさみしかったでしょうね。ある日、おばあちゃんは怒って、お母さんの馬鹿って言ったんですって。そうしたらおばあさまからあなたと同じ様に、夜中にカラスが来ますよって言われてね…翌朝、あなたと同じ様に唇が切れたそうよ。  それから何年かして、お手伝いさんに「もしかしておばあちゃまがしはったんかなあ」って相談したんですって。あなたと同じ様に悩んでね。でも何度聞いてもお手伝いさんは、大奥様がそんなことされるはずあらしまへん。としか言わなくて、なんだか本当の事を隠されてる気がして不安だったんですって。  おばあちゃん、ずっとこわかったそうよ。 小さい頃は、カラスが来たのかな?少し大きくなって、そんなはずないかと思ってからは、もしかしておばあちゃまが?まさかお母さんが?って。  まあでも大人になるにつれてだんだん薄れてはくるのよね。そういう疑いも怖さも。 おばあちゃんの両親も早くに亡くなってしまったから確認したくても出来なくなっちゃったしね。 ただ、忘れていても、小さなとげみたいに時々思い出して、その内とげをかばっている内にとげがあることをまた忘れて…。  でも、と私の顔を見た。 おばあちゃんの記憶に引き込まれていたのか、母は夢から覚めた様な不思議な顔をしている。 そしてそっと握った私の手に視線を落とすとまた静かに話し出した。  あなたが私に馬鹿って言ったとき、おばあちゃんは思い出したのよ。 自分もこう言っておばあちゃんに叱られたな。翌朝唇が切れたんだったって。 それで、結局あれはどうしてだったのかしらって、気になって確かめたくなったのね。  だから、あなたが私に馬鹿って言った日、その夜あなたがどうなるか、お願いだから見ててやってっておばあちゃんにたのまれたのよ。 もちろん、カラスなんて来なかったし、おばあちゃんも誰もこなかった。 でもあなたの唇は切れたわね。 お母さんも不思議だったわ。明るくなったら血がにじんでたんだもの。  でも子供って、例えば催眠術にかけられて火のついたマッチだと言って肌に小枝を当てると、その当てた所がやけどになることがあるそうよ。 きっと、そういうことだったのね。 え、どういうことかって? う〜ん、自己暗示って事かしら。自分で信じて、思い込んだのよ。 『カラスが来て、唇をつつかれる』って。  母が小さく笑った。話す間祖母の言葉を思い出すように伏せていた目をあげて、困ったような顔で私を見た。「おばあちゃん、ごめんねって言ってたわ。あなた、こわがってたもんね」  でも私は胸につかえていた小石がようやく消えたような気持ちだった。 柱に足をぶつけて泣いた時の柱に怒ってみせたおばあちゃんの横顔や、ワルツを教えてくれた時の重なったつま先を思い出した。 そして、風邪を引いておでことおでこをくっつけた時の、ぎゅっと抱きしめられた時の、おばあちゃんのいいにおいが、いっぺんに体を満たして、涙になった。  おばあちゃんが恋しい。 おばあちゃんは私が産まれた時からおばあちゃんだったから、子供の頃があるってことも考えた事なかった。 当たり前だけど自分と同じ様に、子供の頃があって、そして自分と同じ事でずっと悩んでたんだ。 おばあちゃんの子供の頃の顔が見えるような気がした。 あの朝の笑顔の理由も今ならわかる。 おばあちゃんの小石も消えたんだ。  母の温かな手を背中に感じながら泣いたあと、ふと気づいた。 がばっと顔をあげて母に言う。 「…なあお母さん。おばあちゃん、なんでお父さんにはしいひんかったん!」 なんとなく父がやるべき役が理不尽に私にまわって来た気がした。 ちらりとおばあちゃんの顔を見る。 しらんぷりしている時の顔をしている。  「ふふ、お父さんにもしたそうよ。あなたと同じ5才位の頃だったって。でもね、お父さんその時、なんて言ったと思う?『カラス〜?そんなわけないやろ』って笑ったんですって!おばあちゃん、かわいげないって怒ってたわ。でもお父さんらしいわよねえ」と母は両手をほほに当てて嬉しそうに目を細めた。父のことが大好きなのだ。  私はおおげさにためいきをついてみせたが、笑わずにはいられなかった。
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