プロローグ

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プロローグ

─── その男――は、晴れ渡った空を眩しそうに見上げた。 雲一つない青空。こんな空をいったいいつから見ていないだろう。真剣に考えそうになって、一人苦笑した。そもそも空を見上げるなんて余裕は自分にはなかった。毎日毎日、必死に働いて…… 朝はまだボーッとする頭のまま満員電車に揺られ、会社に着けばパソコンと睨めっこ。会議という名の無駄な時間がずっと続き、帰宅は日付も変わる真夜中、なんて生活を何年も続けた。 そしていくら遅く一日を終わらせても、またすぐに朝が来る。そんな毎日を何の抵抗もなく過ごしていたのだ。だけどそれが苦痛だった訳じゃない。むしろ当たり前だと思っていた。こんな生活が出来ない奴の方が低能だと嘲笑っていたのだ。自分は誰よりも優秀であると驕っていたのだ。 ーーそう、あの日までは……… ――― ♯ 古びた電車に揺られ、福島研次はボーッと窓の外を見つめていた。過ぎ去る景色が平和な田園風景に変わっていく。その横顔には憂いと、どこか懐かしむような表情が浮かんでいた。 研次は東京の会社に勤めていた。一流大学を出てエリートとして会社に入社。新人時代からその才覚を発揮し、様々な実績を上げてきた。だがそこで挫折を経験した。その事が原因で会社を辞め、思いきって自分の事を誰も知らない街に行く事を決意したのである。 顔立ちは極めて端整で女性にはモテそうな研次だが、本人は至ってそういう事には疎く、仕事一筋な青年であった。学生時代も勉強ばかりしていたし、そもそも異性に興味がなかったので彼女ができる訳もなかったのだ。だけど研次にとってはそれが当たり前の事で、むしろ一人の方が楽だった。それが40に手が届きそうな年齢になっても結婚できない理由の一つであった。 そろそろ駅に着く時間になりそうだと自分の腕時計に目をやる。あともう少しだ。これから始まる新しい生活に少々の不安と期待を膨らませながら、研次は一つ深呼吸をした。 「次は~⚪⚪~⚪⚪~電車が揺れますので、停車するまでなるべく席を立たないで下さい。」 自分が降りる駅のアナウンスが流れる。研次は天井から聞こえる声に倣って動かずにいたが、ほとんどの人がアナウンスを無視して席を立っている。研次はそんな様子を肩を竦めながら眺めていた。 減速していく感覚を味わいながら、研次はふと少し離れた所にいるお婆さんの姿を目に留めていた。背の低いその人は、精一杯背伸びをして荷物を降ろそうとしている。手伝おうかと思い一歩足を踏み出そうとした、その時だった。 『キキィーー!』 けたたましい音と共に電車が揺れ、研次の体もぐらりと前のめりになった。悲鳴が響き渡る。研次は咄嗟に前の座席の背もたれに掴まった。周りの人達も傍にあった椅子の背もたれや吊革に掴まっている様子だ。 一安心したのも束の間、研次はハッとして先程のお婆さんの姿を探した。 「大丈夫ですか!」 その人は落ちてきた荷物の下敷きになって倒れていた。慌てて駆け寄る。荷物の方は思ったより軽かった。それを退かして、うつ伏せになって少し横を向いた顔をのぞき込んだ。 「お婆さん!大丈夫ですか?しっかりして下さい!」 頭を打っているかも知れないと思い、あまり動かさないようにする。そして研次は更に呼びながら、肩を叩いた。 「う~……ん…」 何度目かの呼びかけに小さくではあるが反応があった。研次はホッとため息を吐いた。 「大丈夫でしたか?お怪我された方は……」 血相を変えて車掌が出てくる。彼はお婆さんの姿を見て言葉を切ると、更に慌てながら大声を出した。 「た、大変だ!駅の方に連絡して救急車呼んでもらわないと!あ、皆さん!他にお怪我された方はいらっしゃいませんか?」 「私達は大丈夫のようです。それより……」 「そうですね!とりあえずもうすぐ駅に着きますので、お待ち下さい!」 研次が傍らのお婆さんを心配そうに見ながらそう言うと、車掌は僅かに頷き幾分か落ち着いた様子で乗客全員を見渡した。そして最後に研次と目が合うと、深々と頭を下げて飛び出して行った。 「大丈夫なんですか?」 まだ若そうな女性が後ろの方から近づいてきながら研次を見る。研次は微笑みながら答えた。 「ええ、心配いらないと思いますよ。意識はあるようです。」 「そうですか……」 「良かったねぇ、ママ。」 「そうね。」 その女性と子どものやり取りのおかげで、その場に和やかな空気が流れる。研次も思わず微笑んだ。 それからすぐに電車は駅に到着し、待機していた救急車でお婆さんは近くの病院へと運ばれていった。大丈夫だとは思ったがやはり心配だったので、研次は一応一緒に乗っていく事にした。 ある晴れた日の、突然の出来事だった…… .
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