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24、許容――鎧
―――
♯
「待って下さい!……章介さん!」
中庭に章介の姿を見つけた春香は思わず大声を上げた。ビックリして振り向く章介の表情が何だかおかしくて、つい笑ってしまう。
「な、何がおかしいんですか?」
「ごめんなさい。福島さんの時には見せなかった表情だったからつい……」
「俺、どんな顔してました?」
「無防備で弱虫で優柔不断な顔です。」
「もうそれやめて下さい……」
顔を隠した章介を春香は黙って見つめる。そしてゆっくり近づいていった。
「座りましょうか。」
傍にあったベンチを指すと章介は無言で頷く。春香は先に歩いて行って腰を下ろした。
「聞かないんですね。」
「え?」
「何で俺があんな事したのか。」
項垂れる章介を横目に見ながら、春香は密かに溜め息を吐いた。
『あんな事』というのはきっと、兄を刺してしまったあの事件の事を言っているのだろう。春香はもう一度隣を見ると口を開いた。
「貴方が何の理由もなく強盗なんてするはずありません。……何か理由があるんでしょ?」
「……」
「須田さん?」
「あの……実は……」
章介は重い口を開いて過去の話を始めた。
「俺はずっと、自分には勉強しかないと思っていました。何をやってもダメだったから運動はもちろん、人間関係や家族の中でもうまくいかなくて……勉強だけはやればやるだけ結果に繋がって。それがすごく面白くて。……気づいた時にはもう遅かった。自分が周りの奴らより一番優秀だと勘違いをして、人を見下す最低な人間になっていたんです。」
「……」
春香はただ黙って聞いていた。近くに保育園でもあるのか子どもの歓声が微かに聞こえる。そう言えば葉菜の勤務している保育園ってこの近くだったなぁ、とどうでもいい事を考えながら。
「大学も首席で卒業して、自分で言うのも恥ずかしいですがエリートとしてある企業に就職しました。そこは年齢なんて関係なく、能力がある奴が出世していく会社だと聞いていたから自分もすぐに出世街道に乗れるだろうと高をくくっていたんです。だけど……」
そこで言葉を切る章介を春香は見た。うっすらと目に涙を溜めていて悔しそうに奥歯を噛んでいる様子に、胸の奥から溢れてくる衝動を感じていた。
この人が味わってきた全てを理解してあげる事なんて出来ないし、どんな思いでこの話を自分にしているのかもわかってあげられない。自分にはただこうして聞いてあげる事しか出来ないんだと思った。ただ隣にいてあげる事しか……
「三年かけて完成させたあるプロジェクトがそっくりそのまま上司に盗まれて、しかもそれが会議に通った事で上司の派閥の社員達から邪魔者扱いされました。すごく悔しくてショックで……飲めない酒を毎晩浴びるように飲んで、出社しても仕事なんてないから何日もサボって……だけどどんなに荒れようとクビにはなりませんでした。エリートとして採ったが故の会社のプライドでしょうか。我慢できなくなった俺は、ある日自分から辞表を出して辞めました。」
頭の上をカラスが飛んでいく。章介はそれを目で追った。
「辞表を出した日の帰り道、両手に荷物を抱えた俺の事を皆無視して歩いてるのを見て、俺の中の何かが壊れてしまったんだと思います。まぁ、だからといってあんな事をした理由にはなりませんけど……お兄さんの事も刺そうと思って刺した訳じゃなくて事故というか……いやでも、こんな言い訳無用でしたね。刺してしまったのは事実ですから。」
『はぁ~……』と一つ溜め息を吐いた章介は、おずおずと春香の方を窺った。
「前園さん、あの……」
「ありがとうございます。話してくれて。」
「え?」
「貴方の事、少しだけどわかった気がします。」
ずっと前を向いていた春香がおもむろにこちらを向く。
「確かに事件を起こした理由にはなりませんけど、そういう心理状態になってしまった理由にはなりますよね。でもその上司、ホントに酷いですね。ぶん殴っちゃいたいくらい!」
「……え?あの、前園さん……?」
「何ですか?」
「いやあの、いつもと雰囲気がちょっと違うような気が……さっきお兄さんの病室の時から思ってたんですが……」
「あ、ごめんなさい。ちょっと猫かぶってたかも。どっちかというとこれが本当の私。」
悪戯っぽい笑顔で言うと、やっと章介の顔にも笑みが見えた。それに春香はホッとしていつの間にか緊張していた体から力を抜いた。
「ね?人って一つの顔じゃなくて色んな面を持ち合わせているんですよ。だから貴方にもたくさんの顔があって、それが極端な形で表に出てしまっただけだと思う。」
自分に対して真っ直ぐな瞳を向けてくる彼女の姿に、章介は見惚れていた。そして沸々と湧き上がってくる何とも言えない感情が、心の奥深くから流れてくる。それに戸惑っているうちにも春香の話は続いた。
「でも根本的な素質って変わらないと思うんです。自分の一番奥にある真の姿って。それを守る為に人はいくつも鎧を被るんですよ、きっと。生まれながらの悪人はいないって信じてる性善説の私の持論です。」
「鎧……」
「看護師をしてるとね。人が鎧を脱ぎ捨てていくのを何度も見るんですよ。邪悪なものを取って本当の姿になっていくんです。その時のありのままの姿が一番その人らしいっていう事なんだと思います。」
「鎧か……確かに今は何だか体が軽いです。もう何も隠し事ないから。」
「ふふ。今の顔、今までで一番貴方らしいです。」
「え!どんな顔ですか?変な顔してませんでしたよね?」
慌てて自分の顔をぺたぺたと触る章介を春香は笑って見つめた。
「ねぇ、章介さん?」
「はい?」
下の名前で呼ばれた事にも気づかない様子の章介に、笑いをかみ殺しながら言った。
「もう一度、言わせて下さい。……須田章介さん、貴方が好きです。貴方とずっと一緒にいたい。」
「俺が……」
「例え犯罪者でも。大切な人が貴方の犠牲になったのだとしても。過去を乗り越えて前を向いていきたいから。」
「前園さん……」
「春香です。」
「え……?」
「そう呼んで下さい。」
「……春香さん。」
「はい。」
見つめてくる春香の顔をしばらく眺めていた章介は、膝に置いていた自分の手を見た。
この手はもう汚れている。だからもう二度と誰かを抱きしめる事なんて出来ないと思っていた。幸せになれない。なっちゃいけないんだと決めつけていた。
そう思い込む事で、自分がした事をなかった事にしていたのかも知れない。でも……
もう一度春香を見る。自分はこの人に何をしてあげられる?こんなに優しくて強くて、だけど本当は弱い人。
瞳はこんなにも強くて真っ直ぐなのに震えている手。この手を掴むのは、本当に自分なのか?この期に及んでまだ鎧を被ろうとする自分に苦笑する。そして章介はいつの間にか閉じていた目を開けると、そっと春香の手を握った。
「お、俺も……一緒に生きていきたい……です。」
その時見た彼女の顔は、今まで見てきた中で一番彼女らしいと思った。引き寄せた春香の体は思ったよりも軽く、だけどその中に抱えているものの重さにビックリする。
自分は今、彼女のお陰で鎧を脱ぐ事が出来た。今度は自分の番だ。彼女が纏っている鎧を一つ一つ剥いであげたい。そして自分の罪を彼女の傍で一生をかけて償いたい。
ゆっくりと重なった二人の向こうでは、雨上がりでもないのに何故か虹が出ていた……
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