リマインダー

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「わっ」 僕より頭二つくらい小さい、華奢な体躯にも関わらず威風堂々とした構えに、僕は思わずたじろいでしまった。いかんいかん。おどおどしていると却って気に障るだろう。とりあえず、「おやすみ、明日早いから今日はもう寝るよ」と何気ない夜の挨拶をしてその場を通り過ぎようと試みた。 が、その試みに待ったがかかった。 「ねえ、覚えてる?」 灯里の一言に、僕は一瞬きょとんとした。何だっけ。何か約束したっけか。覚えがない。 特に心当たりが見つからない僕は、そこで最悪の選択をしてしまった。何を血迷ったか、妻の機嫌が悪そうな原因の究明を放棄し、二人にとって大切な日のことをちゃんと覚えている、ということを、胸を張って高らかに宣言してしまったのである。 「八月五日、僕らの結婚記念日。二か月前だけど、レストランを予約しちゃった」 この店なんだけど、とポケットからスマートフォンを取り出して先ほどのレストランのホームページを表示させたとき、彼女の表情が、近年問題となっているゲリラ豪雨が降りだす前の空模様もかくや、という速度で険しくなった。 まずい。 さすがの僕も、天気が急激に悪くなったことに気が付いたが、もはや手遅れだった。耳をつんざく雷鳴のように大きなお叱りの声が、激しい大粒の雨のような勢いで灯里の口から飛び出してきた。 「予約しちゃった、じゃないっ。あなた洗い物当番でしょ。食器はその日のうちに洗ってねって、今朝言ったし、さっきも頼んだのに!」 ――ああ、そのことか! 僕はようやく合点がいった。つまり、こういうことである。僕たち夫婦は、僕がデザイナー、灯里が食品販売会社の営業、と共働きのため、家事を当番制で分担していて、仕事で忙しいときを除き、炊事に洗濯、掃除などの家事を一週間ごとに当番制で回している。で、今週の食器洗いは僕に割り当てられていた。だけど、今日できることは今日やる、今できることは今やるのがモットーの妻に対し、無理して急がず、泰然自若に構える主義の僕である。晩ご飯の食器など、翌日の朝ごはんの食器と一緒に洗えばいいか、とつい後回しにしてしまう。夜はご飯ものだけど、朝はパン食が多いから食器が被らないから問題ない、というのが僕の持論である。 だけど灯里は食器が翌朝まで放置されているのを激しく嫌い、僕はよく怒られるのである。 「翌朝洗えばいいってもんじゃないの、シンクがぬるぬるするしバイ菌も湧くから。今朝ちゃんとやるって言ったから、待ってたのに」 今夜も僕が言われなくても食器を洗うかどうか注視していたのだろう。食べ終わったとき言ってくれてもいいのに、と思ったところで、食後に「洗い物よろしくね」と言われて「うん」と二つ返事したことを思い出した。 これは僕が悪い。夫婦にとって大切なことは、結婚記念日だけではないのだ。 「ごめん!」 僕は両手を合わせながら腰を直角に折り曲げて謝罪すると、すぐさま台所へ向かったのだった。
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