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ニューノーマル
「ヘルシンキの蝶のせいだよ」
わたしにキスをした茉莉花は、およぐ茶色い瞳を、引っかかるようなウインクで隠す。
「嵐が起きるとでもいうの」
さあ、と言って茉莉花は紺色のウレタンマスクをさっとつける。
「ウインク、へたくそじゃん」
「マスクをしていない君が悪いんだよ」
自分の席に置きっぱなしになっていたリュックを背負い、背を向けて、手をあげるとすぐに教室を出てゆく茉莉花。
軽い、触れるだけのキスだった。
わたしは、誰もいない放課後の教室でリップバームを塗っていた。口紅みたいな色のつくそれを、わたしはマスク着用が必須な今の情勢をいいことに愛用していた。
薬指でリップを塗っているその時に茉莉花が教室に入ってきた。
お互いの瞳が一直線に繋がったような気がする。
その一瞬、時間がゆっくりになった。茉莉花の瞳が大きく見開かれる。
視線を外さぬまま、茉莉花はマスクを取り外しながら近づいてきて、わたしの左腕を押さえ、そして躊躇なくわたしの唇にキスをした。
キスをしたあとで、彼女は我にかえった、のだと思う。意味の分からない、わたしには通じたけれど、そんな言い訳とへたくそなウインクは、やってしまったあとの動揺のあらわれだ。彼女はひどく慌てたんだ。
わたしはといえば、キスをもらいながら、なにこれ、なにこれ、なにこれと、頭の中で繰り返していた。
そう繰り返しながらも、わたしは茉莉花の素顔を瞳に焼き付けていた。
茉莉花の素顔は思ったよりも可愛かった。少し、幼かった。もっとずっと大人びていて、どちらかというと綺麗め系なのかと思っていた。
わたしの素顔は、彼女にどんな風に映っただろう。
ひとり残された教室で、わたしは、慌ててマスクをかける。茉莉花の余韻が残っている。触れた感触が、閉ざされた空間で揺れている。
わたしは、今のキスを振り返る。リップバームを塗っていてよかったなあ、茉莉花にもこの甘さと香りは届いたかな、なんてのんきに考えていた。
だけれど、少し時間が経つにつれ、だんだん、どきどきしてきた。
しんとした教室が、なにか、わたしを責めるようだ。
なんだよ、今の。わたし、ファーストキスを奪われた? お互いの同意もなしにいきなりに? それっていいの? 大丈夫なの? でも茉莉花、女の子だし、クラスメイトだし、ていうより友だちだし。ううん、友だちだからって許されること? 女の子同士だから許されること? そんなことない。いきなりのキスが、了解のないキスが、簡単に許されていいことだと思えない。そうだ、やっぱりこれすごい大問題だよ。
茉莉花だったから、ではなくて、わたしだったから、これは大ごとにならずに済むけれど、この出来事は、とても間違っていることだ。
普段、人に見せない部分を、そんな風に軽く扱ってはいけないのだ。
じゃあ、今のパンデミックが終わったら、自由に誰とでもキスしてもいいの? ううん、それもやっぱりだめだ。憧れの人から、いきなりキスをもらうことを夢想したことはあるんだけれど、それはもう違うんだ。
ちゃんと手順を踏んで、わたしのパーソナルスペースに入ることを、許してからでないと、こういうことをしてはいけないんだ。
だって、相手が茉莉花じゃなかったら、例えば、わたしが抵抗できないような男の人だったら、ということを考えると体が震えてくる。
わななく体を鎮めるために、深呼吸をする。その度に茉莉花と息をしているような気がする。振り切るようにわたしは教室を駆け足で抜ける。
「ユユ!」
わたしは声に呼び止められる。
廊下に茉莉花が立っている。
「ユユ! ごめんなさい」
深々と茉莉花が頭を下げる。
わたしたちは、たぶん、新しい時代に生きることになったのだろうと思う。それは、今まで自由だったこと、許されていたこと、それらのうちに、実は正しくないものがあるということが、どんどん明らかになってくる時代だ。許されていたように見えて、それは不当な扱いだったということが分かる時代だ。
そういう情報をわたしは、たくさん目にするようになった。憧れの女性ミュージシャンが、モデルが、インフルエンサーが、声を大にして訴えてくれる。ほんの少し前の自分だったら、なんだかちんぷんかんぷんだったようなことも、だんだん分かってきた。
繰り返して言い続けてくれるから、どういうことが差別でいけないことなのか、ルッキズムというものがなんなのか、分かってくる。ううん、分かっていないこともたくさんあると思うんだけれど、なんていうか、正しくあろうとする人の声を少しずつ聞き分けられるようになってきていると思う。
それでも、マスク越しに分かり合おうとするわたしたちは、表情を読むことができずにたくさん間違いを犯すだろう。
それでも、それだから、なおさら、相手の気持ちを考えなくてはならない。
わたしは茉莉花と対峙する。
一度、深呼吸をする。
唇を噛む。
心を決めて、切り出す。
わたしは、茉莉花にこう声をかけた。
「いっしょに、考えようよ」
蝶々むすび:0001 ニューノーマル <了>
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