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蝶々むすび|特別な日
「余白の時間が、大事なんだよ」
わたしに言い含めるように、景都はマスク越しにゆっくりとつぶやく。そのおっとりとした声とは正反対に、指先はリズミカルに運針を続けている。
オートマタ、とわたしは思う。刺繍をするためだけに作られた自動機械。伏し目がちなその瞳はラピスラズリでできている。
「こうやって、刺繍をしているとね、心の中に空白がたくさんできてくるの。それは悪い意味じゃないの。この数日間に起こった出来事が、なんだかすんなりと自分の場所に置かれてゆく、そんな感覚なの」
デフラグというやつだなあ、とわたしは思う。断片化された情報を最適な状態に並べ直す。
「テトリスみたいなこと?」
わたしは、とぼける風を装って聞く。
「テトリス……。テトリスってなあに?」
瞳を手元からそらさずに景都は尋ねる。デフラグを分かりやすく言ったつもりだったんだけどな。ツムツムとは違うんだよなあ。
「落ちゲーだよ。知らない?」
「うん。知らない。落ちゲーってなあに?」
「景都、ゲームしないもんね」
「しないねえ。こうやって、ちまちま刺繍をしているのが好きだから」
景都の指の動きが休まることはない。迷いのないチェーンステッチが続く。ぐるぐると円が内側に向かって描かれてゆく。
少しリズムが変わる。すると、景都は違う色の糸をするすると取り出す。針の穴にも躊躇なく一発で通してしまう。わたしみたいに糸を舐めるようなこともしない。
本当に機械みたいな正確な動き。
デフラグされてゆく景都の心とは反対に、わたしは、その指を止めたい衝動に駆られる。
あのさ、手元じゃなくて、わたしの方を向いてくれないかな?
わたしの心は絡まった刺繍糸みたいになる。ほぐすことすらできなくなって、ぐちゃぐちゃで、あとは切ってしまうしかないのじゃないか、と途方に暮れる。
「つぐみは、退屈じゃないの?」
「景都の刺繍は飽きない」
「そう」
景都の刺繍に見入っているふりをして、本当は伏し目になっているその顔を覗き見している。
ただ、その横顔を見つめていたいっていう気持ち、景都には分かるかな。
「分かるよ」
心臓が跳ね上がる。
心が、見透かされた。
「刺繍って、なんだかじっと見入ってしまう魔力みたいなものがあるよね」
わたしは、それが「飽きない」という言葉に対してのディレイした回答だと、了解はするのだけれど、心臓のどきどきがやまない。魔力を持っているのは、景都の方じゃないの?
「できた」
そう言って、景都は刺繍枠を取り外す。
「どう?」
「小鳥」
「そう」
「刺繍は素敵だけど、地味な色だね」
わたしは、率直な物言いをするから損しているとよく言われる。言いながら気づくのに、言葉が思考より早く、口から出てしまう。
「素敵な柄だと思うよ。わたし、好きだな」
瞳を伏せたまま景都が言う。わたしは慌ててフォローするように言葉を発する。
「景都はもっとロマンチックな色合いが好きだと思っていた」
なんかフォローになっていないな、と思いつつ、口にしている。わたしの心と言葉はなんだかいつもちぐはぐだ。
「なんだ、つぐみ、知らないの?」
景都がわたしの瞳を覗いてくる。その瞬間に、心は真っ青になる。
恐れと憧れ。わたしはまた、間違った発言をした。そう考えながら、今度は脳と心がちぐはぐになる。
心はその瞳をラピスラズリ、と思い、弾む。他の人にはありきたりな黒い瞳に見えるかもしれないけれど、わたしにとっては、遠くの海からやってきた色に見えてしまう。我ながら、どれだけ認知を歪ませているのかって呆れるけれど、いいんだ、景都の瞳は、わたしの天然ウルトラマリン。
「この小鳥、つぐみよ」
景都は刺繍したその布を四角く折りたたんで、わたしに差し出す。
「あとで、ちゃんとアイロンかけるね」
わたしは、その布を、刺繍されたハンカチをおずおずと受け取る。
つぐみってこんな鳥なんだ。
もちろん、知ってる。名前にまつわる鳥だもの、知ってる。知ってるけれど、その鳥をこんなに愛らしく感じたことは一度もない。
わたしは刺繍の小鳥を撫でる。
指先が嬉しく、小さく震えた。
「羽根のね、角度によっては、瑠璃色に光るように三本どりにしているの。光を当ててみてみてよ」
わたしは、言われるがままに刺繍を光にかざす。
小鳥の羽根が青く光る。
「素敵な色でしょ。わたし、瑠璃色が大好きなの」
わたしは息を飲み込む。わたしも! と飛びつくように大きな声で言えたらどれだけいいか。だけど、そうしたら、本当に心を見せてしまうことになる。
ううん、それで思いが届くのなら。
「わたしも」
同意した声は掠れ、震える。それをマスクのせいにする。
「プレゼントするね」
どうして、と言いかけたわたしの口をマスク越しに人差し指で止める。
「わたしの得意は小さいの。特別にするには心許ないの。それでも、届けたい気持ちがある。つぐみの特別な日に、もしかしたら画面越しにしかおめでとうを伝えられないかもしれない。今、こうして会えることが特別なの。だから、わたしの気持ちをお渡しするね」
もう、わたしは自分の感情を抑えることはできなかった。目から涙が溢れる。
景都の瑠璃色の瞳が慌て、戸惑っている。ちがう、ちがうんだよ。
「とっても、嬉しい……」
泣きながら、わたしは声を絞り出す。
わたしも、景都に何かあげるものを携えるべきだった。
そうだ。この夏を無事に乗り切れる保証なんてなくなったんだ。
気軽に会える日が、もしかしたらやって来ない日常があるかもしれないんだ。
「景都に、わたし、なんにも渡すものがない」
ハンカチを汚すまいと、わたしは両手を前に伸ばしたまま、泣いていた。まるでコントだ。
「そんなの、つぐみに会えるだけで嬉しいよ。わたしの気持ち、受け取って」
わたしは、うなずく。そして約束をする。
「わたしも、きっと素敵を用意するから」
蝶々むすび:0003 特別な日 <了>
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