2枚のコイン

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「なあ、覚えてるか。海でコインを拾った日のこと」 酒が進み、ひとしきり思い出話で盛り上がった後、つかの間の沈黙が流れた。 そしてその沈黙の隙間を突くように坂上が訊いてきた。 ダウンライトに照らされた坂上の顔が、一瞬、グロテスクに歪んで見えた。 こいつはこんな顔をしていたのか。 「覚えてるよな? それとも……」 もちろん覚えていた。 それは高校の夏休みだった。 永い歳月が流れたので、すべてがボンヤリしている。 どこの海だったのか。誰がいたのか。 すべてがあやふやだ。 けれど、コインのことだけは鮮明に覚えている。いや、むしろその場面しか覚えていない。 そのことは坂上にも解っているはずだった。 坂上はこの話をするために、私に連絡をしてきたのだ。 「海で拾ったコイン? 何の話だ。覚えてないな」 私はとぼけた。白々しい嘘だ。 どんなに白々しくても、約束は約束だ。決して反故にできない。そんな勇気も度胸も覚悟もない。ましてや歳月のせいになどできるわけもない。 坂上は押し黙った。 私もそれ以上、口を開かなかった。 私にとってそれは、予定調和の沈黙だった。 30年前。私達は高校生だった。 夏休みのある日、クラスの仲間と海に行った。 女子も合わせて10人以上いたはずだが、坂上以外、顔も名前も思い出せない。 砂浜で波とたわむれながらビーチボールで遊んだ気もするが、大人になってから観た雑誌の写真かテレビでみたドラマと混同しているだけかも知れない。 すべてセピア色した靄の中の記憶だ。 もしコインのことがなければ、海へ行ったこと自体、記憶から抜け落ちていたかも知れない。 その時、私と坂上は砂浜から離れた岩場にいた。辺りには誰もいなかった。二人きりだ。 なぜ、皆から離れて二人だけで岩場にいたのか、今となっては理由はわからない。 たぶん理由らしい理由はなかったのだろう。 坂上と特別仲がよかった訳ではないし、皆と別行動したことに意味などなかったはずだ。 なんとなくだ。 なんとなく、坂上とそこにいたのだ。 しかし、そのなんとなくが、その後の人生に大きな影響を与えることになる。 岩場での記憶も、それが始まるまでは曖昧だ。 今では、夢の中の場所のようにさえ思える。 大きなフナムシが足元を走り抜け、驚いて後退った時だった。 眼前の潮溜まりが不自然に盛り上がったように見えた。 目の錯覚。そう思う程度の変化だった。 次に音を聞いた。いや、音と言うより地鳴り。そして、わずかな振動。 咄嗟に地震だと思い、後ろの坂上を振り返ると、泣きそうな顔で立ち尽くしているのが見えた。 一点を凝視している。 潮溜まり。 視線を戻すと、潮溜まりから何かが起ち上がるところだった。 黒い人型の何か。 海の水が人の形に盛り上がり、片膝をついて起き上がろうとしているように見えた。 水滴というには多すぎる量の海水がその躰から流れ落ちた。 海の化身。 咄嗟にそう感じた。 言い知れぬ恐怖に足がすくんだ。 逃げ出すことも出来ず、その場に凍りついてしまう。 化身は起ち上がると、ゆっくりとした足取りで、そう、あたかも人間のような足取りで、近づいてきた。 一歩一歩進むたび、大量の海水が岩場に飛び散る。 海の化身は私たちの目の前まで来ると、まるで握手を求めるように右手を差し出した。 つられるように私も右手を出す。 とその時、強い声が頭の中に響いた。 (受け取れ。そして決して口外するな。おまえ達同士でもだ) 割れるような痛みに頭を抱えると、目の前の海の化身が、突然、割れた。 水風船が割れるように、バシャッと音を立てて人の形が崩れた。 チリンチリン。 金属音がして、見ると岩の上にコインが2枚落ちていた。 そして私達は、無言でそのコインを一枚ずつ手に取り、コインの存在以外の全てを忘れることにした。 なぜそうしたのか。そうなったのか。今となってはよくわからない。 一万円札が落ちていたら、まずは拾うだろう。その感覚に近い。 しかもそのコインは、一万円札どころではなく世界そのものを買うことができるほど貴重なモノなのだ。 そのコインを見た瞬間に、そのことが 当たり前のように理解できた。 本能的な理解。 人間の奥にある、あらゆる欲望を司る根源的なシステム。何かがそこに触れ本能的な理解へ導いた。 理屈を付ければそんなところか。 そのコインの前では、海の化身の存在すらなかったことにしていいと思えたのだ。たぶん。 コインを手にした私たちは、卒業後、各々世界を買い始めた。 私のやり方は、コイントス。全てをコイントスで決める。些細なことも大きな決断も。 そして順調に世界を買い進んだ。 坂上のやり方は知らない。 だが彼も順調に世界を買い進んでいった。 やがて、二人は驚くほど莫大な富を築いた。 10日前。 六本木ヒルズの最上階のバスルームでジャグジーに浸かりながらウトウトしていた。マセットを飲み過ぎた。 夢を見た。 みなとみらいの臨港パークに200メートル越えの巨大な海の化身が起っていた。 私はパークの芝生に寝そべり海の化身の表情を読み取ろうと目を細めてる。 いくら目を凝らしても表情はわからない。 化身はただ起っているだけだ。 その時、声が聞こえた。 穏やかで少し笑いを堪えているような声だった。 『コインはもうじき1枚になる』 聞き覚えのある声だ。大昔に一度だけ岩場で聞いたあの化身の声だ。 夢はそこで終わった。 そして、その3日後に、坂上から連絡が来たのだ。 ……ゲームの本番はこれから始まるのだ。
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