彼女の声が聞こえるから

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「ああ、覚えているよ……」 「どうかしましたか? フジサキさん」  声をかけられたように思って返事をしたけれど、車椅子に座ったおじいさん――利用者のフジサキさんはこちらを向くこと無く窓の外を眺めたまま話していた。  私には見えない、フジサキさんにしか見えない誰かと話しているみたい。  またか。  穏やかに話しているので、私は邪魔すること無く、洗濯物を片付けると、返事がないことを知りつつも「失礼しました」と業務的な挨拶をして、フジサキさんの居室を後にした。  リビングに戻ると、私はニコニコと微笑むおばあさん――利用者のタネダさんの隣りに座って書類仕事をしている先輩職員に声をかけた。 「あの、二番居室のフジサキさんですけど……」 「ああ、また話してた?」  私が不安げに尋ねると、先輩は何も気にせずに軽く返した。  特別養護老人ホームに入居しているような高齢者ならば、認知症から見えない誰かと話していたり、大声で独り言を言っているのも珍しくない。昨日の夜だって、五番地居室のおばあさんは、私には見えない少年と手を繋いで楽しそうに散歩をしていたし。 「まあ、良いんじゃない? 私たちや他の利用者さんに危害を加えるでもなし。何も問題ないんだからさ」  確かに、フジサキさんは誰かに暴力を振るうような利用者さんじゃないし、どちらかといえば穏やかで手のかからない人だ。 「それに、本人は幸せそうだし」  言うと先輩は広げていた書類を纏めながら「ねータネダさん」とまるで友達に話しかけるように、隣りに座ったタネダさんに声をかけた。話しかけられたタネダさんは分かっているのかいないのか、ニコニコとしたまま「そうねえ。楽しいのが一番ねえ」と答えた。 「……そうですよね」  締め切っていない戸の隙間から、フジサキさんの様子を窺う。春の陽光に照らされながら、彼だけに見えているらしい誰かと思い出話に花を咲かせる彼は平和そのもので、とても幸せそうに見えた。  羨ましい。  私は深くため息を吐いた。 「ねえ、覚えてる?」  不意に声をかけられて、私はどきりとした。 「何がですか?」  声のした方に振り向くけど、誰も居ない。  澄んだよく通る綺麗な女の人の声。しわがれた高齢の声じゃなかった。  近くに若い女の人は先輩しか居ない。声が違ったように思えたけど、一応尋ねてみる。 「先輩。なにか言いました?」 「何もー」  先輩はこちらを見もせずに答えた。  やっぱり違った。なら、私の気のせいか。それほど疲れているつもりはなかったけど、自覚していないだけで疲れが溜まっているのかもしれないな。 「まさか、あなたまで見えない誰かと話し出すんじゃないでしょうね」 「もーそうなったら、介護してくださいよ」  私は嫌な予感を振り払うように冗談を言い、二人して笑った。
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