2人が本棚に入れています
本棚に追加
彼女が初めて声をかけてきたのは、大学入学直前。初めて一人暮らしを始めた日だった。
県外の大学に合格した僕は、親元を離れて築三十年近い良く言えば風情のある、悪く言えばオンボロなアパートで一人暮らしを始めた。暮らしやすさよりも、できる限り生活費用を抑えたいという気持ちからの選択だった。
これが間違いだった。
引っ越しを終えた夜。荷物は最低限の荷物だけだったので、早々に荷解きを終えて、慣れない部屋で明日からの生活――居るかどうかも分からない綺麗な女性との出会いや、これからの大学生活――に胸を高鳴らせていた。
ずっと戸建ての実家で両親と暮らしてきたために、他の部屋とはいえ同じ屋根の下に他人が居て、その生活音が聞こえてくるということに違和感を覚えて、落ち着かなかったのかもしれない。
「ねえ、覚えてる?」
突然、女性の声が聞こえた。外から聞こえる雑音に紛れない、澄んだきれいな声だった。
隣室からの声だろうと、初めは無視をしようとしたけど、もしかしたらこれがきっかけで、この綺麗な声の女性と知り合いになれるかもしれないと「どうかしましたか?」と返事をしてしまった。
今考えると、知らない隣人から突然返事があるなんて気持ち悪いし、もし生身の人間だとしても関わり合いにはなりたくないだろう。それすら判断出来ない程に、当時の僕は浮かれていたんだ。
それ以来、彼女との、いや姿の見えない綺麗な声の彼女との関係は続いている。
同じアパートにそれらしい女性が住んでいないかと探したけど、こんなセキュリティのかけらも存在アパートに住んでいるような若い女性は居なかった。
それに、アパートの外でも聞こえるのだから、テレビやラジオといったスピーカーの音とも考えられない。
部屋に住み着いている地縛霊かもしれないと引っ越しをしたり、安くないお金を支払って有名な神社にお祓いなんかも行ったし、心療内科に通ったりもした。
けれどすべて効果はなく、彼女の声はずっと聞こえている。
ほら、今も。
四六時中、彼女から声をかけられると返事をしなくてはならないものだから、いつしか気味悪がって親しくしてくれる人間は居なくなった。
時折、天涯孤独という単語が頭に浮かんで寂しく思ったり、老後はどうしようかと思ったりもするのだが、そんな時に限って彼女が「ねえ、覚えてる?」と声をかけてくれるので、自分は独りではないんだと思わせてくれた。
「もしかして慰めてくれてるのかい?」
そう尋ねたこともあるが、案の定答えは返ってこなかった。やっぱり、恥ずかしがり屋なのかもしれない。
返事はしてくれない。姿は見えない。それでも、いつしか僕はたしかに彼女が傍に居てくれると感じるようになっていた。
こんな歳になってから現れたイマジナリーフレンドもしくは、孤独を嫌った僕の頭が作り出した妄想彼女。それならそれでいいと思えていた。
若い頃は彼女の声はいつまで聞こえてくるんだろう。もしかして、僕が死ぬまで返事をしなくてはいけないんだろうかと不安で仕方がなかった。
しかし、歳を取るにつれていつの間にか、いつか彼女の声が聞こえなくなったとしたら、そう不安に駆られることが多くなっていた。
姿も見えない、会話も成り立たない相手に対しておかしいが、僕は絆のようなものを感じていて、離れがたい気持ちにすらなっていた。
ずっと、彼女の声が聞こえればいいのに。
最初のコメントを投稿しよう!