忘却と祈りと

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「ね、どうかな? 私のことは覚えてる?」  入れ替わり立ち替わりする人たちから何度も同じ質問をぶつけられ、申し訳ないけれど、僕は正直暗澹とした気持ちでいた。だれから訊ねられても、答えは変わらない。「いいえ」と答えるしかない。覚えていないのだ。――何も。  僕のもとを訪れるひとたちの行動は、おおかた共通していた。まず僕に自分を覚えているかと質問をし、それに僕が答えると、すごく悲しそうな顔をする。中には泣く人すらいる。ひとしきり悲しんだあとは、今度は自分がどういう人間なのかということを語りだす。僕はそれを、ただ聞いているしかなかった。  十何番めかに僕の病室に入ってきたその女の子もまた、僕の返答を聞くと途端に泣き出してしまった。 「ごめんね、つらいのはキミなのに、ごめんね」  これまでのだれよりも強く悲しみを吐露しているように見えた。訊くと、その女の子は僕の恋人だったらしい。幼馴染でもあったんだとかなんとか。涙声の彼女の言葉は、やや聞き取りにくい。だけど、それだけ悲しんでいるのだということがよくわかった。きっと幸せな恋人同士だったのだろう。  女の子はしばらくべそをかき続けた。慰めるべきかとも思ったけど、やめておいた。泣かないで、大丈夫だよ、そんなこと、僕が言ったってきっとなんの救いにもならない。  ややあって、白衣の男がのっそりと部屋に入ってきた。闖入者に追いやられるようにして女の子が出ていく。去り際に、僕に向けて手を振った。 「またすぐ来るから」  なにがしかの儀礼に則るように、僕も小さく手を振り返した。  白衣の男は僕の担当医だった。ひと目見てわかるほどに年老いていて、身のこなしのあちこちが少し鈍い。顔立ちは峻厳だけど、声色は温和そのものだった。 「疲れたかい」  久しぶりに、「はい」と答えた気がする。すでに横になりたい気持ちでいっぱいだったし、強い眠気も襲ってきていた。窓の外はもう暗い。なのに、老人は素直に僕を寝かせてはくれなかった。僕にいくつかの質問を重ねた。体調はどうか、どこか痛みはないか、なにか思い出せたことは。僕はたぶん、そのすべてに対して好ましくない返答をしたのだろう。老人は眉間にさらなるしわを寄せた。 「きみの記憶障害は、どうも相当に重度らしい。痛ましいことだ。言葉の意味や常識については覚えているのが救いだろうか……」  老人の話は長く、僕は聞いていられなかった。眠気に抗するだけの力が残っていなかったのだ。重くなるまぶたに押し負けると、意識は朦朧とした。薄れゆく意識の中に老人の声が響き続ける。  救い。  その言葉だけが、いやに耳に残っていた。  夢を見た。とてもおだやかな夢だ。僕は待ち合わせをしている。駅前広場、時計塔の真下。石畳には雪が積もって、朝日を照り返していた。きっと冬だったのだろう。吐息が真っ白に染まるのに僕自身は少しも寒くなくて、夢だとわかった。  少し離れたところから、女の子が僕の方に駆け寄ってくる。僕の恋人だったというその人。眠る前に見た悲しげな顔とはまるで違う、弾けるような笑顔を僕に向けていた。  ごめんね、おまたせ。  僕も、いま来たところだよ。  ステレオタイプなやり取りを済ませて、横に並んで歩き出す。ワルツのステップを踏むように軽やかに、楽しげに。彼女はおもむろに僕の右手を取ると、指を絡めた。繋がった箇所から伝わる人肌の温度が、僕のからだを火照らせていた。  ――熱い。  強い寝苦しさを感じて、夜中に目を覚ました。全身が焼かれたように熱を持っている。僕ははじめ、何が起こっているのかがわからなかった。からだを起こすこともできない。暗闇の底で身悶えをしながらただ耐え続け、どれくらいの時間をやり過ごしただろう。熱は波のように徐々に引いていき、代わって、鈍い痛みがじくじくと脈打った。つらいのには変わりないけど、少しだけ落ち着くことができる。  熱と痛みの出どころは、どうやら右腕のようだった。ついさっき、夢の世界で恋人に握られたその手は、いまギプスと包帯で固定されて沈黙している。動かそうとしても動かない。骨が砕けているのだそうだ。日中には文字通り何も感じなかったのに、麻酔か鎮痛剤かが切れてしまったのか。  ひどく喉が渇いていた。痛みの切れ間にどうにか体勢を整え、サイドボードにあるボトルに左手を伸ばす。ボトルはひどく重く感じた。飲み口に差し込まれたストローをくわえ、水を吸い上げ、飲み下す。なんてことのない一連の動作の、そのひとつひとつをきちんと意識的に行わなければならなかった。ボトルを落としかねないし、誤嚥しかねない。きわめて慎重にならなければ、僕はひとりで水を飲むこともできなかった。  ほんのわずか、からだを動かしただけで、倦怠感があった。僕はふたたびベッドにからだを沈めた。まだ眠気は残っている。だけど、右手を伝う鈍痛と、とめどなく襲い来る不安感とが、僕から睡眠を遠ざけた。  眠ることはできず、寝返りも打てない。それがずいぶん苦しいことだと知った。苦しみから逃れられたのは明け方、空が白みはじめたころだった。  ◇◇◇  半月が過ぎた。  たったの二週間、大切にしていなければあっという間に消費してしまう程度の期間だ。だけど、決して短いものではなかった。毎日のように、異なる医師やカウンセラーの指導を受けた。それでも僕の記憶は戻らない。戻る兆しも見せない。何かきっかけがあれば思い出すかもしれない、何度そう言われたことか。きっかけなんて、僕には少しの心当たりもないのに。  僕は家族と恋人、友人たちの顔と名前を覚えた。思い出したのではなく、覚え直したのだ。かつての僕と親しかったという彼らは凄く親切で、優しい人たちだった。空いた時間を見つけては、もしかしたら無理やり時間を作っていたのかもしれないけど、たびたび僕の病室を訪れてくれた。たいていの場合、彼らは何か差し入れを持っていた。それは僕が好きだったという食べ物だったり、小説だったり、CDアルバムだったりした。僕の記憶を呼び戻す手助けになれば、という切なる気持ちをひしひしと感じた。  残念ながら、僕は彼らの期待に応えることはできなかった。記憶は変わらず欠如したまま、親しげに接してくる彼らに対する違和感も、拭えないまま。彼らが持ってきてくれるものにしても、それほどの魅力を感じなかった。きっと不愉快な態度を取りもしただろう。  それなのに、誰も僕を咎めようとはしなかった。ひたすら大切に、僕を慈しんでくれた。日毎見舞ってくれる家族、僕を楽しませようと愉快な話を展開する友人たち。いまの僕にはもったいないくらい、善良な人たちだった。 「……昔の僕は、そんなにいいやつだったのかな?」  僕のためにとカップケーキを焼いてきてくれた恋人に、僕はついそう溢した。僕から話を振ることが稀だったからだろう。彼女は目を丸くして、それからそっと微笑んだ。 「うん。あなたはすてきな人だよ」  彼女はためらいなく言い切った。そして、いくつかの思い出話をしてくれた。小さい頃からいつも一緒だったこと。犬が苦手だった彼女を野良犬から庇ったこと。高校が別になって寂しかったこと。大学で再会できてどんなに嬉しかったかということ。他にも、いろいろ。  やはり、どの話を聞いても我が事のようには感じられなかった。ピンと来ていない僕に、彼女はがっくりと肩を落とした。だけどすぐにまた顔を上げて、平気なふりをしていた。その健気さを、僕はつい愛おしく思ってしまった。  彼女とそんな話をしたころ、からだの方のリハビリが始まった。健康だった僕にいったい何が起こってこうなったのか、誰も教えてはくれなかったけど、おそらくは事故にでも遭ったのだろう。右腕が砕け、右脚も折れて弱っていた。長いあいだ安静にしていたことも相まって、脚は支えがなければ立つこともできず、手は箸を握ることもできない。リハビリは過酷で、想像していたよりずっとつらかった。  だけど、休むわけにもいかない。リハビリ室の方にも、みんながよく見舞いに、応援に来てくれた。  リハビリの技師が、あるとき何気なく言った。 「君の人徳かな」  休憩中、突然のことで、僕は言葉の意図を量りかねた。僕が首をかしげると、技師は苦笑いをした。 「入院するとね。はじめの数日は、みんなお見舞いに来てくれるんだ。中には毎日のように来てくれる人もいる。ありがたいことにね。だけど日数が長引くと、ひとり、またひとりと足が遠のいていく。最後には誰も残らない。寂しいけど、そういうものさ。仕方ないんだ。それぞれに生活があるんだから」  僕は、僕の周りにいる人たちのことを考えた。技師の言う通り、最近顔を見なくなった人もいる。ただそれ以上に、いまでも毎日のように見舞ってくれる人がたくさんいた。 「君の周りにはずっとたくさんの人がいる。君の家族や友人、恋人の人柄が素晴らしいのは、まあ言うまでもない。でも、そういう人たちに囲まれていられるのは、きっと君自身にも人徳があったからなのだろうね」  記憶を失う前の僕について、いろいろな人から話を聞いてみた。人によって評価はまちまちだったけど、ほとんど全員が口を揃えて、利他主義的な性格だったと言った。困っている人を放っておけない、赤の他人のためにも必死になれる。  僕はかつての自分との乖離を感じずにはいられなかった。僕はいま、誰かに助けてもらわなければ生きられない。誰かを助ける余裕なんてとてもない。窓から大切な人が落ちそうになっていたとしても、見ていることしかできないだろう。  不毛な比較の末に、ひどい虚しさを覚えた。  ◇◇◇  また、半月が過ぎた。目覚めてから月の満ち欠けが一周して、満月の夜。  リハビリは順調に進んでいた。満足に運動することはまだできないけど、どうにか自立して歩けるようになったし、自分の利き手で食事も摂れる。ご家族と相談して退院する日を決めましょうか、昼間にはそんな事も言われた。  からだが順調に回復する一方で、記憶の方はまったく戻らないままだった。八方手を尽くしてもらった。現代医療の枠組みを越えて、スピリチュアルな施術に頼りもした。それでも。  相変わらず、かつての僕と親しかった人たちは頻繁に僕の病室を訪れる。  いったいどれだけのお人好しなのかと、僕は思わずにはいられない。  身体的外形や遺伝子情報を参照するなら、なるほど僕は間違いなく彼らの愛した人物そのものなのだろう。だけど、いまの僕には彼らと過ごした記憶も、その実感もない。まったくの別人と言ってもいいくらいだ。望ましい振る舞いも、受け答えも、きっと僕はできていない。そんな僕に対しても彼らは常に優しく、不満を口にすることも、不安を表に出すこともしなかった。  この心のうちの焦燥を、どう言葉にすればいいだろう。  いまの僕は、いまの僕なりに、彼らに対して好感を持ち始めていた。そして、その好感が増すのにつれて、自分に対する嫌悪も募っていた。無償の愛を注いでくれる人たちに対して、僕は何ひとつも報いることができない。いっそ何もかも、本当に何もかもを忘れてしまって、赤ん坊のように振る舞うことができていたなら、こんな複雑な想いを持つこともなかったのかもしれない。そうであればよかったなんて、とても言えないけれど。  僕はからだを起こし、よろよろとベッドから離れた。窓を開けると、秋の涼しい夜風が流れ込んでくる。最近、夜がとても長い。単に季節のためというだけではなく、眠ることが難しくなったせいで。  じき、僕は退院することになる。そうなれば、とりあえずは両親の暮らす家に入ることになるだろう。幼馴染だという恋人や、古くからの友人たちの助けも借りながら、生活をする。一緒に過ごす時間が増えれば、迷惑をかける機会も増えるのは間違いない。その未来を考えると、苦しい。  からだが完治したあとに、記憶を取り戻したそのあとに、存分に恩返しをすればいい。そう開き直ろうとした夜もある。だけど、からだはともかく、記憶は戻るかどうか――その確証が、もはやどこにもなかった。  頭が不出来になってしまった僕を、彼らはずっと暖かく見守ってくれた。もしもこれから先、永遠に僕の記憶が失われたままでも、きっと彼らは僕を詰ったり、責めたりはしない。そういう善良な人たちだと、一ヶ月を通して何度も思い知らされた。  大切なことをすべて忘れた僕のそばで、彼らはさも気にしていないかのように振る舞うだろう。だけど、心のどこかでは必ず、僕の記憶が戻る日を待ち続けている。それだけは僕にもわかる。  死ぬまで続きかねない僕のうつろな道に、彼らを付き合わせるのは残酷だと思った。  窓枠に凭れかかるかたちで、僕は病室を眺めた。毎日いろんなものを差し入れてくれるから、菓子折り、小説、CD、ゲーム機、室内はいつでも賑やかだった。そんな空間の中心に僕がいるのは、やはり可笑しいのだ。  以前、医師が言っていたことをふと思い出した。僕にとっての救いは、言葉の意味や常識を忘れなかったこと。なんの気もなく聞き流したけど、そのとおりだといまは思う。 「どうか忘れてくれますように」  僕は空を見上げた。  色のない風が服の裾を煽る。  きれいな月の浮かぶ、すてきな夜だった。
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