0人が本棚に入れています
本棚に追加
2
大学の講義を終えて、疲れた頭を抱えて電車に乗った。
「はあ」
俺は電車のつり革につかまり、そっと息を吐いた。
授業に身が入らない。マリアの問いが、頭をめぐる。
物忘れするほうではない、という自負はある。会う約束をすぐ忘れる友人がいるから、基準が少し甘いかもしれないが、それでも、人並みの記憶力は持っているつもりだ。
まして、マリアは一度会ったら忘れられない容姿だ。日本人ではないし、腰までの長い金髪に、長いまつげに整った目鼻立ち。今でもはっきりと思い出せる。
好みかどうかという点は、まったく関係ない。
一度見たら、目で追ってしまう不思議な魅力があるのだ。
高校生らしからぬ、落ち着いた雰囲気のせいだろうか。
(だから、絶対に会ったことはないはず)
彼女が俺をからかっているのだろうか。
女子高生は何を面白がるのかよくわからない。俺は苦笑した。ちょっと前まで、自分もその集団にいたはずなのに、高校生という枠を卒業した途端、彼ら彼女らは、見知らぬ生き物になっていた。妹ですら、もう思考がよくわからない。
だから、意味はなくとも、クラスメイトの兄をからかって、反応を楽しんでいるのだろうか。
(そんな悪意めいたものは、感じなかった)
車窓の風景が流れていく。
彼女はどこか嬉しそうだった。
「・・・」
そこも、わけが分からない点だった。
なぜ嬉しそうに見えたのだろう。実際に嬉しかったとして、初対面のはずなのに、なぜ。
考えれば考えるほど混乱していく。
(会ったこと、ない、はず)
再び同じところに戻る。
そして、戻るたびに自信がなくなっていく。
本当に会ったことがないのだろうか。
もしかしたら、どこかでほんの少しすれ違うとか、言葉を交わしたことがあったのかもしれない。
俺が気づかなかっただけで、彼女が見かけてたのかもしれない。
最寄り駅に着いたので、電車を降りた。改札口を出て、顔を上げた俺は、目を見張った。
「こんにちは」
制服姿のマリアが立っていた。
「あ、すみません」
動揺しすぎて、一歩下がってしまい、後ろの人とぶつかってしまった。彼女がくすくすと笑ったのがわかった。
顔が熱くなる。動揺を隠しきれないまま、とにかく何か言わなくちゃと思った。
「えっと、あの、なんで、ここに?」
マリアはすっと柔らかい笑みを浮かべた。長い髪がさらりと揺れた。
「思い出しました?」
「え」
俺はギクリとした。
思い出しましたかと聞かれても、会った覚えもないので思い出すものが何もない。とは言えなかった。
何も覚えていないことに、後ろめたさを感じてくる。
「あ、いや」
俺の返事に、彼女は失望するだろうかと思ったが、そんなことはなかった。彼女は柔らかい笑みのまま、まるで子供を見るような目で俺を見ていた。
それは、女子高生の目つきではなかった。まるで孫を見る祖母のような暖かさのある目だった。
(この子はいったい、何者なんだ)
計り知れない何かがある。だいたいのことは受け入れてしまうような包容力。
名は体を表すということなのか。
マリアは、戸惑う俺を気にしていなかった。そう、と言うとにっこり笑った。
「記憶というのは、確かなようで、案外曖昧なものですよね。今こんな風にお会いして話したことも、数日経つと、どこかドラマや映画のワンシーンとごちゃ混ぜになって、どこまでが本当にあったことで、どこからが記憶に頼った部分なのか、判別がつかなくなってしまう。あなたが私と会ったかどうかも、考えすぎて、想像と結びついてしまうかもしれない。夢で見た記憶と重なってしまうかもしれない。とても不確実なもの」
俺はマリアを見た。嫌みを言っているわけではなさそうだ。
けれど、彼女の真意が見えない。
「えっと・・・」
マリアは頬にかかった髪を、そっと後ろへ払った。
「今生では、思い出さないかもしれないですね」
「え?」
「またお会いしましょう。今日はこれでさようなら」
「あの・・・」
彼女は俺の呼びかけに、にっこり笑っただけで、するりと駅構内の雑踏に消えた。
取り残された俺は、呆然とするしかなかった。
最初のコメントを投稿しよう!