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大学の講義を終えて、疲れた頭を抱えて電車に乗った。 「はあ」 俺は電車のつり革につかまり、そっと息を吐いた。 授業に身が入らない。マリアの問いが、頭をめぐる。 物忘れするほうではない、という自負はある。会う約束をすぐ忘れる友人がいるから、基準が少し甘いかもしれないが、それでも、人並みの記憶力は持っているつもりだ。 まして、マリアは一度会ったら忘れられない容姿だ。日本人ではないし、腰までの長い金髪に、長いまつげに整った目鼻立ち。今でもはっきりと思い出せる。 好みかどうかという点は、まったく関係ない。 一度見たら、目で追ってしまう不思議な魅力があるのだ。 高校生らしからぬ、落ち着いた雰囲気のせいだろうか。 (だから、絶対に会ったことはないはず) 彼女が俺をからかっているのだろうか。 女子高生は何を面白がるのかよくわからない。俺は苦笑した。ちょっと前まで、自分もその集団にいたはずなのに、高校生という枠を卒業した途端、彼ら彼女らは、見知らぬ生き物になっていた。妹ですら、もう思考がよくわからない。 だから、意味はなくとも、クラスメイトの兄をからかって、反応を楽しんでいるのだろうか。 (そんな悪意めいたものは、感じなかった) 車窓の風景が流れていく。 彼女はどこか嬉しそうだった。 「・・・」 そこも、わけが分からない点だった。 なぜ嬉しそうに見えたのだろう。実際に嬉しかったとして、初対面のはずなのに、なぜ。 考えれば考えるほど混乱していく。 (会ったこと、ない、はず) 再び同じところに戻る。 そして、戻るたびに自信がなくなっていく。 本当に会ったことがないのだろうか。 もしかしたら、どこかでほんの少しすれ違うとか、言葉を交わしたことがあったのかもしれない。 俺が気づかなかっただけで、彼女が見かけてたのかもしれない。 最寄り駅に着いたので、電車を降りた。改札口を出て、顔を上げた俺は、目を見張った。 「こんにちは」 制服姿のマリアが立っていた。 「あ、すみません」 動揺しすぎて、一歩下がってしまい、後ろの人とぶつかってしまった。彼女がくすくすと笑ったのがわかった。 顔が熱くなる。動揺を隠しきれないまま、とにかく何か言わなくちゃと思った。 「えっと、あの、なんで、ここに?」 マリアはすっと柔らかい笑みを浮かべた。長い髪がさらりと揺れた。 「思い出しました?」 「え」 俺はギクリとした。 思い出しましたかと聞かれても、会った覚えもないので思い出すものが何もない。とは言えなかった。 何も覚えていないことに、後ろめたさを感じてくる。 「あ、いや」 俺の返事に、彼女は失望するだろうかと思ったが、そんなことはなかった。彼女は柔らかい笑みのまま、まるで子供を見るような目で俺を見ていた。 それは、女子高生の目つきではなかった。まるで孫を見る祖母のような暖かさのある目だった。 (この子はいったい、何者なんだ) 計り知れない何かがある。だいたいのことは受け入れてしまうような包容力。 名は体を表すということなのか。 マリアは、戸惑う俺を気にしていなかった。そう、と言うとにっこり笑った。 「記憶というのは、確かなようで、案外曖昧なものですよね。今こんな風にお会いして話したことも、数日経つと、どこかドラマや映画のワンシーンとごちゃ混ぜになって、どこまでが本当にあったことで、どこからが記憶に頼った部分なのか、判別がつかなくなってしまう。あなたが私と会ったかどうかも、考えすぎて、想像と結びついてしまうかもしれない。夢で見た記憶と重なってしまうかもしれない。とても不確実なもの」 俺はマリアを見た。嫌みを言っているわけではなさそうだ。 けれど、彼女の真意が見えない。 「えっと・・・」 マリアは頬にかかった髪を、そっと後ろへ払った。 「今生(こんじょう)では、思い出さないかもしれないですね」 「え?」 「またお会いしましょう。今日はこれでさようなら」 「あの・・・」 彼女は俺の呼びかけに、にっこり笑っただけで、するりと駅構内の雑踏に消えた。 取り残された俺は、呆然とするしかなかった。
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