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「ねぇ、景山仄花って覚えてる?」
私が恐る恐る尋ねると、莉奈と早苗は不思議そうに顔を見合わせた。
「誰?」
覚えていないのだろうか。
この教室に出入りする生徒の中で、一体何人が彼女のことを記憶に留めているのだろう。
「あ、カゲのこと?」
早苗は少し考えて、彼女のことを思い出したようだ。
「そうだよ。私たちが嫌がらせして、退学に追いやったあの子のこと」
「ああ、そんな奴もいたな。それが何?」
莉奈が興味もなさそうに続きをうながす。
「……景山さん、自殺したんだって」
「え」
私が言うと、ふたりは固まった。
「塾の友達が、さらにその友達から聞いたらしいの。引っ越し先の家で、手首を切って死んだって」
ふたりの顔色をうかがうと、早苗の方が動揺を見せ始めていた。
「それヤバいんじゃない? 遺書とかあったの? もし私らのことが書いてあったら……」
「わからない。家族が自殺のことを隠したがってて、公にはなってないみたい」
「それで? ほかにわかることは?」
焦っているのは早苗だけだった。こんな話をしても、莉奈は平気そうな顔をしている。
「別にたいしたことないじゃん。私らが殺したわけじゃないんだし」
莉奈はそう言って、スマホをさわり始める。もうこの話題からは興味を失ったようだ。
「そうだよね。ごめんね、変な話をしちゃって」
私は無理に明るく笑った。
景山仄花は、読書が趣味の物静かな人だった。
銀縁の眼鏡をかけていて、少し目つきが悪い。どこか排他的な雰囲気をまとっているのは、彼女が東京の出身だからだろうか。
景山さんが私たちのグループにいたのは、高校に入ったばかりの頃だ。
地味で大人しい彼女をパシリにしようとした莉奈が、グループに引き入れた。景山さんは勉強もできるから、宿題も見せてもらえるだろうと。
でも、景山さんは思った以上に我が強くて、莉奈の思い通りにはならなかった。
だから、嫌がらせが始まったのだ。
景山さんは虫が嫌いだった。
いつも物静かな彼女だが、一度だけ教室で大声を上げたことがある。その原因は、突然彼女に向かって飛んできた虫だった。
何があっても冷静そうに見える景山さんが、虫に驚いて悲鳴を上げたのだ。
その反応は新鮮で、些細なことだが記憶に残っている。
莉奈は、そこに目を付けた。
「結実って、虫さわれるよね」
「うん、さわれるけど?」
私が答えると、莉奈はニヤッと口元を歪めた。
その日から、私は莉奈に指示されて嫌がらせを始めた。
景山さんのカバンに毛虫を忍ばせたり、机の上で大きなバッタを潰したり。莉奈は陰湿な嫌がらせを思いついては、私に実行させた。
もちろん気持ち悪かったけど、私はほかの女子たちより虫が平気みたいだ。
でも、虫が大嫌いな景山さんには、耐えられないくらいつらかったのだろう。
景山さんは、1ヶ月も持たなかった。
やがて不登校になり、そのあとすぐに学校をやめたと、担任の先生から聞かされた。
「……景山さん、自殺したんだって」
自分の発した言葉が、頭の中でぐるぐると回っている。
何かとんでもないものの引き金を引いてしまったような気がした。
これから何が起きるのだろう。
私の不安は、次の日、思ってもみない形で現実のものとなった。
「おはよう」
普段と変わらず教室に入った私は、黒板を見て目を疑った。
「なに、これ……」
皆が黒板の前に人だかりを作っている。
そこには、びっしりと赤い手形がついていた。
乱れた手形の示す文字が、かろうじて読み取れる。
――ゆるさない
黒板には、たしかにそう書かれていた。
これは誰から誰へ向けてのメッセージなのだろう。
私には、他人事とは思えなかった。
だって、「許さない」と言われる心当たりがあるから。
「ちょっと、誰の嫌がらせ? ふざけんなっつーの」
いつの間にか教室に来ていた莉奈が、顔を引きつらせている。
そのとなりにいる早苗は、真っ青な顔色をしていた。
彼女たちも、このメッセージを自分あてのものだと受けとったのだ。
「結実、消してよ……」
莉奈がかすれた声で言う。
「わかっ、た」
バケツと雑巾はどこだろう。
教室の掃除用具入れからそれらを見つけ、水をくんで教室に戻る。
雑巾を絞っていると、男子たちの話し声が聞こえてきた。
「俺ら、この前肝試しで夜中に墓地に行ったんだ。そしたらそこで、景山さんを見かけてさ……。まさか、あの子って死んだりしてないよな?」
後半は、私たちのグループに向けた問いかけのようだった。
私は聞こえないふりをして、濡れた雑巾で黒板を拭いた。
景山さんが死んだという話は、私たち3人しか知らないはずだ。なのに男子たちまで、景山さんの幽霊を見たと言う。
手にした雑巾は、あっという間に赤黒く染まっていった。
不意に鉄のにおいが鼻を突く。
じゃあこの汚れは、まさか、本物の血?
においに誘発されて、胃の中身がせり上がってくる。
私は吐きそうになり、走ってトイレに駆け込んだ。
私が途中までしか消せなかった手形は、莉奈と早苗で消してくれたらしい。
ふたりも、あれを教師に見られるわけにはいかないと思ったのだろう。
「ごめんね……」
私が謝っても、莉奈は不機嫌なままだった。
「あんたって、ほんと使えない」
いつものことだ。莉奈には、他人を召使いのように扱うくせがある。
そんな莉奈に、私は提案した。
「ねえ、今からでも、景山さんに謝らない?」
「は? 何言ってんの?」
「だってあの手形は、景山さんの呪いかもしれないんだよ。何かある前に、私たちがしてきたことを謝ろうよ」
だけど、莉奈は私の提案を受け付けなかった。
「バカじゃないの。呪いなんてあってたまるか」
「莉奈!」
「ああ、気分悪い! 私、帰る!」
莉奈は荒々しくカバンをつかむと、まだ午前中だというのに教室を出て行った。
こうして莉奈が学校を早退するのは、珍しいことではない。
「結実、出しゃばりすぎ」
黙ってやりとりを聞いていた早苗が、咎めるような目を向けてくる。
「ごめん」
「ねえ、それより、私の裏アカウントを変な人に教えたりしてないよね?」
「まさか。でも、どうして?」
「きのうからずっと嫌がらせされてるの。投稿したこと全部に、『ブス』とか『死ね』とかコメントされて。しかも、最後には『人殺し』って……」
「人殺し――」
「私、このアカウントは本当に仲のいい子にしか教えてないのに」
「わかってる。だから、人にバラしたりなんか絶対にしないよ!」
「莉奈にも?」
「もちろん、莉奈にも」
私が強く言い切ると、早苗は申し訳なさそうに目を伏せた。
「そうだよね。結実はそんなことしないよね。疑ってごめん」
事件は、それで終わりではなかった。
次の日の朝、私は手首に包帯を巻いて学校に行くことになった。
それを見た莉奈と早苗は、血相を変えた。
「結実、どうしたの!?」
早苗が心配そうにきいてくれる。
「実はきのうの夜、突然部屋の窓ガラスが割れたの。それで、手首がざっくり切れちゃって……」
「なんで急にガラスが?」
莉奈が尋ねる。
「……景山さんがいた」
「は?」
「私、見たの。ガラスが割れたとき、窓の外に、血まみれの景山さんが立ってた。私の部屋、2階なのに」
「嘘つかないで! 死んだアイツがそんなところにいるわけないでしょ!」
「嘘じゃないよ! きっと、自殺した景山さんが、私たちを呪ってるんだ」
「やめて!」
莉奈はこれ以上聞きたくないと言うみたいに、首を振った。
「早苗もなんとか言いなさいよ」
「え……。私、呪われたくない」
早苗は珍しく、莉奈の期待に沿わない返事をした。
「もういい。私、帰るから」
「待って、莉奈」
私は莉奈を追いかけた。
校舎にチャイムが鳴り響き、廊下に出ていた人たちも各々の教室へ入っていく。
莉奈は逃げるような早足で歩き、その背中はどんどん遠ざかっていった。
「莉奈……」
呼び止めるための言葉を、私は持っていない。
莉奈が廊下の角を曲がった。
せめて校舎を出るまでには追いつこうと、私も早足になる。
そして階段にさしかかり、そこで、莉奈の体が宙に投げ出されていくのを見た。
「きゃあああああ――!」
なすすべもなく、莉奈は階段を落ちていく。
「莉奈!」
私は階段を駆け下りた。
落ちた莉奈は、踊り場でうずくまっている。
「莉奈、莉奈! 大丈夫?」
「う……」
意識はあるみたいだ。頭を打ったようには見えなかったけど、油断はできない。
「動ける? どこか痛めてない?」
「……押された」
「え?」
「私、誰かに背中を押されたの。結実、犯人見たでしょう?」
「犯人って?」
「私を階段から突き落とした犯人!」
「……誰も、いなかったよ」
「は?」
莉奈の顔色が、みるみるうちに青ざめていく。
「本当に、誰もいなかったの。莉奈はひとりで階段から落ちたんだよ」
「嘘よ……」
莉奈はガタガタと震えだして、アイラインに縁取られた瞳に涙を浮かべた。
「だって……。もう、イヤだぁぁぁ!」
突然私の胸に飛び込んできた莉奈は、小さな子どものように泣きじゃくった。
私や早苗に上からものを言う暴君の面影は、まるでない。
私は子どもをあやすみたいにして、莉奈の背中をそっとさすった。
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