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引っ越して来たあの日から変わらず、鈴美さんはこのボロアパートの――俺たち姉弟が住んでいた部屋の隣室に住み続けている。
扉の前に立ち、呼吸が止まりかける。
何度も見慣れている――しかも自分たちが住んでいた部屋とほぼ同じ扉なハズなのに、何だかとても緊張する。
ふぅー……と肺の奥で止まり溜まっていた酸素を二酸化炭素に変えて、吐き出す。
よし、冷静になってきた。
気持ちが整ったところで、ドアを3回ノックする。
それから間もなく「はぁーい、今開けるからねぇ」という声がドア越しから聞こえてきて、開いたと同時に――――
「おはよ、蛍くん」
「………………」
「えーっと、蛍くん? 大丈夫?」
「えっ……あ、あぁ……はい」
「ちょっと張り切ってみちゃったんだけど……もしかして、似合わなかった?」
「そっ、それはないですっ!」
むしろ、その逆だ。
「め、めちゃくちゃ……可愛いですし、綺麗ですっ……」
オフショルダーの白いワンピースに、小さな麦わら帽子――夏らしくて涼し気な格好であるそれは、この間姉貴の結婚式で見たウェディングドレスみたいで。
意識するなという方が無理に思える。
そんなこちらの想いを知ってか否か。鈴美さんは、
「ふふっ、ありがとう。蛍くんも、ビシッと決まっててカッコいいよ」
「……ッ、ありがとう、ございます」
白いカットソーTシャツに黒のスキニーパンツというシンプルな服装だが、鈴美さんにそう褒められるとこの服装を選んで良かったなと改めて思えた。
だが、今はまだ浮かれてはいけない。大事なのは此処からだ。
心の内で喝を入れて、掌を彼女の前に差し出す。その行動が読み取れなかったのか、鈴美さんは俺の顔と掌を交互に見て、キョトンとした表情を浮かべる。
「手、良かったら繋ぎませんか?」
意味をようやく理解した鈴美さんは、たちまち頬を赤らめて「私で良いのっ!?」と慌てふためいた。
「勿論、嫌じゃなければですが……」
「えっ!? そんな、嫌じゃないよ! うーん、でもまぁ……繋いじゃおっか」
キュッと握られる掌。柔らかくて、俺よりも小さい……けど指なんかはスラリと細くて、綺麗だった。
この手で、いつも珈琲淹れてくれてたよな。
じんわりと、舌に彼女の珈琲の味がよみがえる。淹れ立ての匂いと同じ、香ばしさと仄かに甘めの味わい。俺は、鈴美さんが淹れてくれた珈琲がいつも好きだった。
けど、もう飲むことは出来ないんだよな……
決意が改まり、離さないように彼女の掌を握り返す。
じんわりと、お互いの汗が混じり溶け合っていく。
ぐっと近くなった距離――彼女から香る清らかなお香の匂いが、強まった気がした。
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