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いつの間にか新しい店が建っていた。信号のある交差点の一角で、小さなコンビニが潰れた後は空き地になっていた場所。のぼりも看板も無く、何のお店なのか分からない。
建物は道路から少し距離をおいているので駐車スペースがある。とはいっても、入るのは二台か三台だろう。外観は角地に合った立方体で(こういう形の建物はどうやって屋根の雨水を排水するのだろう)、塗りたてを思わせる白い外壁、控えめな窓が西側と南側に。中の様子はよく見えない。入り口の扉に取手が付いているから手動なのだろう。OPENと書かれた札が下がっていて、美容院のようにもカフェのようにも見える。
昨日の夕方、仕事帰りに通りかかったときには空き地だった。交通量の多い交差点なのに……いや、故にかもしれないが、ここにできた店はあっという間に潰れてしまう。コンビニの前はラーメン屋、その前は古本屋、その前はもう覚えていない。呪われているかのように店が入れ代わり立ち代わりする土地というのはある。そうはいっても、だ。いくら疲れていても、何も無かった場所に建物がデンと構えていれば気が付かないはずはない。一日で店を建てる工法でも生まれたのだろうか? そんなばかな。
通勤途中だというのに、要らぬ好奇心がうずいてしまう。一度気になってしまうと、確かめずにはいられない性分なのだ。腕時計を見る。ちょっと中を覗くくらいの時間はありそうだ。
扉を押すと、ドアベルがチリンと鳴った。冷風が顔をなでる。初夏のアスファルトを歩いてきた身にはたまらない。
「いらっしゃいませ」
声の先に視線を向けると、長身の年若い男性が。白の長袖シャツに黒いエプロン姿。入り口右手のカウンターキッチンに立っていた。控えめに言ってかっこいい。この出で立ちならば。
「突然すみません。こちらはカフェ、ですか」
クロスでマグカップを拭いている白く細長い指は止めずに、しばし間を置いてから、
「そう呼ばれる方もいらっしゃいますが、カフェとは少し違うかもしれません」
と、彼はゆったりと答えた。耳に優しく届いたテノールボイスが、カウンターの上に吊るされた電球色の照明が、ダークブラウンの床板が、かすかに漂うコーヒーの香りが、彼の落ち着いた空気と見事なまでに調和していた。カフェではないと言われたけれど、ここはカフェで、彼はそのマスターであるのは間違いないと思われるほどに。
店内に足を踏み入れたことを少し後悔していた。ここがカフェであろうと美容院であろうと、こんな小洒落たお店には気後れする。私の背丈に合っているのはネカフェとか満喫とかブックオフとか、そのあたりだ。でも入ったからには、何の店か聞き出したい。そして「あらそうですか、なんて素敵なお店でしょう、後でまたお邪魔しますわ」とかなんとか言って撤退すればいい。もう来ることは無いとしても、それくらいの社交辞令は私にも言える。自身に社会不適合者のラベルを貼りつつも、なるべく人間関係に波風を立てぬよう生きているつもりなのだ。それはさておき、一つ心残りがあるとすれば、このマスターのご尊顔を再び拝めないことだ。いや、マスターではないか。まあいいか。
「そうすると、ここは何屋さんなんでしょうか」
店内はそれほど広くない。入り口正面、つまり私の真ん前には扉があって奥に続いているようだけれど、倉庫か休憩室だろう。元は品揃えの悪いコンビニが建っていたのだ。【休憩所】にしては店が小さすぎるし、上品すぎる。行ったことないけど。カフェではないとすれば、何屋だというのだろう。
「強いて言うなら、あなたの居場所でしょうか」
ホストか? 要するに、カフェはただお茶する場所ではなく、心のオアシスで、羽を休めるとまり木で……というように、マスターなりに【あなたの居場所】と言っているのだろう。ラジオパーソナリティーが【お耳の恋人】とか言うように。でもマスターが言うと様になる。
「このお店は、あなたが必要としたから、あなたの前に現れたんですよ。きっと」
マスターは意味深な言葉を付け加えた。私がこの店を必要とした事実は無いはずだけれど、からかう口ぶりではなく、キザなセリフの延長でもないようだった。だから気になってしまった。
「ここ、いつオープンしたんですか」
「あなたにとっては今日でしょうね」
「そういうことじゃなくて」
「でも、事実そうです。昨日まで、このお店を見たことも聞いたこともなかったのではないですか」
いよいよ不思議な世界に迷い込んでしまった。もしくは、暑さにやられてしまったのかもしれない。マスターの言葉は良くないおくすりのようだ。嗜んだことないけど。
「細かいことは置いておきましょう。このお店はあなたのために、あなたの居場所を提供するのです。ご案内しますよ」
マスターはカウンターから出ると、さっさと正面にある扉の奥へと進む。
待ってマスター、そんなよく分からない狭い部屋にご案内も何も……。
はっ、そういうことか。マスターは甘く囁いた。あなたの居場所、あなたが必要としたから。密室へのご案内……ここはそういうお店か! カフェ風なんて凝っている。
「どうされましたか、さあ中へ」
切れ長の目がシュッと細くなり、誘うように微笑んでいる。
鼓動は早まり、足が勝手に前へ進んでしまう。あの扉の向こうへ行ってしまったら、きっと戻ってこられない。分かっているのに止められない。カップを優しく拭いていたあの指は、私の全身をくまなく鋭敏にさせるだろう。耳元では常にあのテノールで睦言を囁き、私はすっかり絆されてしまう。そしてあの部屋を出るときには「また来てね。必ず来てね」なんて言われて私は財布からお札を渡しながら「絶対に来ます、だから」……お得意の妄想は、扉の奥の光景に打ち砕かれた。
「ベッドじゃ、ない」
「一応ありますよ、各部屋に。小さいですが」
「ちょっと待ってください、頭を整理したい」
「大丈夫ですよ。初めて来られた方はみんな驚かれますから」
まず、密室ではなかった。長い廊下があった。左右にはたくさんの部屋が並んでいる。ドアを開けて、中を見せてくれる。広さは二畳ほど。確かにベッドがある。一人で体を横たえるには問題ない大きさ。机にはノートパソコンが。これはまるで……。
「なるほど。漫画喫茶とか、ネカフェみたいな感じなんですね」
でも、建物の外観からすれば、この広さはありえない。部屋数は見える限りでも二十以上はある。ずいぶん先には曲がり角があり、その先には更に空間の広がりがあることを物語っている。理解不能だ。
「漫画もありますよ。ここには、あなたが快適に過ごせるものがたくさん揃っています」
マスターに先導されて店内を歩く。曲がり角の先は更に驚きだった。小さめなブックオフくらいの小説・漫画のコーナー、ダーツとビリヤードの遊技場、アメニティ完備の個室シャワー、液晶パネルで操作するドリンクバー機(牛乳も使えるやつ!)、ソフトクリーム機(食べ放題だとか)、お食事メニュー(こちらは有料。かなりのお手頃価格)、ダイヤル式の鍵が付いたロッカー(物盗りはいないから使っている人はいないらしい)。
次々と案内されて、それだけでちょっと疲れてしまった。それを察してか、
「お疲れさまでした。こちらがお部屋です」
と、マスターは番号の付いたタグをくれた。
「お帰りの際、カウンターにお渡しください。では、ごゆっくり」
部屋のドアを閉めて、リクライニングチェアに腰掛ける。正直、何が起こっているかさっぱり分からない。流されるままに来てしまった。私の居場所とやらに。快適な空間であることは間違いないけれど、ここに居ていいのだろうか。
壁には時計がかかっていて、カチカチと音を刻まないタイプだった。秒針は滑るように文字盤の上を動いている。短針と長針の指す数字を見て、血の気が引いた。しまった通勤途中だった。
急いで会社に電話をすると、後輩の女の子が電話口に出た。
「ごめん、連絡遅くなって。今日休もうかと思うんだ。課長に代わってくれるかな」
「あれ、珍しいですね。風邪ですか」
「うーん、そうかな。ちょっと調子悪くて」
「じゃあ、お伝えしておきますよ。課長と話したら余計に気分悪くなりますからね」
最後だけ冗談まじりに声をひそめて。欠勤の連絡はお任せして電話を切った。
後輩ちゃんの言うとおりだ。あんなパワハラおじさんと言葉を交わせば、誰だって体に変調を来す。電話をワンコールで取らなければ「おいっ」と大声を上げ、書類の誤字一つでぐちぐちと嫌味を垂れ、時代錯誤のお茶汲みを命じられて仕方なくやってやれば「薄すぎるから淹れ直せ、お茶くらい子供でも淹れられるだろ」と言い放つ。そして、「少しは会社から必要とされる人間になれよ」と洗脳するかのように繰り返す。だから社内で一番離職率が高い課になってしまった。後輩ちゃんは実によく耐えている。あの明るい性格は強靭なメンタルの表れなのかもしれない。
とりあえず今日一日はこの店でゆっくり過ごそうと漫画コーナーを物色し、シリーズものをごっそりと部屋に持ち込む。温かいカフェオレを真っ白なカップに注ぎ、ソフトクリームには備え付けのチョコソースを添える。マスターが部屋を訪れて、トーストとスクランブルエッグとサラダを「モーニングサービスです」と言って、置いていった。お昼にコンソメスープとトマトスパゲッティとサラダを持って「ランチサービスです」と現れたときには、さすがに気が引けた。
「マスター、こんなにサービスしていただいたら……。そうだ、料金を聞いてませんでした。一時間おいくらですか」
「料金ですか? 当店ではいただいていませんが」
マスターは、当たり前だと言わんばかりの口調で、大変に常識外れなことを言った。それから、「マスターと呼ばれたのは初めてですが、なかなか気持ちの良いものですね」と去り際に笑った。
一日はあっという間に溶けた。シリーズものの漫画は惜しくも全巻読み切らなかったけれど、また来ればいい。夢のような時間だった。誰からも干渉されずに時間を過ごす。私のようなコミュニケーション弱者の生き方はこうあるべきだ。人間が嫌いだとは言わないまでも、関わらずに済むのならそれに越したことはない。
日が傾き、マスターにタグを返すとき、気になっていたことを尋ねてみる。
「料金を取らないで、お店はやっていけるんですか」
「全くご心配には及びません。あなたが必要とする限り、このお店はここにあります。またいつでもいらしてください」
玄関の電灯は付いていない。この家に帰って来るのは私だけだから当然だ。シューズボックスには子供サイズのスニーカーも、男性用の革靴も入っている。あの人が持っていくのを忘れたか、最小限の荷物に留めたのか、こちらから確認する手段は無かった。居場所は知れず、電話は繋がらず、あの人も連絡をよこす気は一切無いらしい。
三日前のこと。家に帰って来ると、あちらこちらで何かが欠け落ちていた。例えば、建物が取り壊されて更地なった後、そこに確かに建物が立っていたはずなのに何の建物だったか思い出せない、あの感覚。そこでようやく自分の過ちに気が付いた。我が家に然るべき関心を向けてこなかったのだと。今朝まで置いてあった物、きっといつも同じ場所に置いてあったであろうものが、そこから無くなってしまったら何が置いてあったのか分からない。あの人のスーツがどこのハンガーにかけてあって、娘のランドセルがどこに投げ置かれていたのか。記憶をたどっても思い出せなかった。
課長が嫌なのは間違いないけれど、仕事は好きだった。稼ぎも良かったから誇らしくもあった。もとより好きなことにはのめり込んでしまう性分だった。漫画も、ゲームも、アニメも、徹底的に。他のことが手に付かなくなるほどに。
こんな人間が家庭を持つべきではなかったのだ。あの人も、娘も、私が何かに打ち込むのを決して邪魔しなかったし、好きにさせてくれていた。きっと、甘えすぎていた。家の中のことを、あの人は「家事が好きなんだ」と言って、なんでもしてくれていた。娘の宿題にも付き合っていたし、私のハンカチ全てにアイロンをかけた。一方、私は。非の打ち所がない夫に、愛しい娘に、何をしてきただろう。思い出せるのはスカートにフリルを縫い付けたことくらい。裁縫は好きだ。つくづく好きなことしかしていない。
私は、家族の一人として、必要とされていたのだろうか。必要じゃなくなったから、最低限の荷物にも入れてもらえなかったのだろうか。
翌日も、マスターの店はそこにあった。
マスターに挨拶だけして(ご尊顔を拝もうという下心ではない。たぶん)会社へ行くことにした。扉を開けると、マスターは変わらずカウンターでカップを拭いていた。
「おはようございます」と、爽やかな笑顔で迎えてくれた。
「おはようございます、ご挨拶だけでもと思って」
「今日は、いいのですか。昨日は、ご満足いただけましたか」
ご満足……ふいにマスターの指が視界に入り、昨日の妄想が頭をよぎった。
「はい! でもまた絶対に来ます、だから」
カバンの中でスマホが鳴動し始めた。会社の番号だった。
「おい、昨日どうして直接俺に連絡しなかった」
通話ボタンを押した途端、これだ。マスターに背を向け、極力小声で弁明する。
「すみません、伝えてくれると言っていたので大丈夫かと思いまして」
「大丈夫なわけあるか! 上司に伝言ゲームなんてお前も偉くなったな。大した仕事もできないくせに。お前みたいな無能は、うちには要らないんだよ!」
パチンと何かが弾けた。これが堪忍袋の緖というやつだろうか。脳の血管じゃなければいいな。
「この前パソコンで、リュー・ド・ルポのページ見てましたよね」
会社近くにあるケーキ屋のことだ。課長は自他ともに認める甘党だ。
「課長の仕事はケーキ屋のサイト眺めることですか。私もそれがいい。ケーキ好きだし」
「お前勝手に画面覗いたのか」
「サボってたんですよね。私が無能なら、課長は何なんですか。無能なんてかわいいもんじゃないですか、給料泥棒よりは」
課長が押し黙る。いつもおとなしくしている人間の反撃に、虚を突かれたようだ。
「そんなわけで、課長が大嫌いなんで、しばらく会社に行きません」
「何言ってるんだおま」
終話ボタンを押したら、課長の言葉が漫画みたいに途切れたものだから、おかしくてにやけてしまう。全然笑い事じゃないんだけど。
「お部屋を用意しましょうか」
マスターの声音は昨日のどんな声よりも静かで、包み込むように優しかった。
もう一週間も店から出ていない。自動退職になっているかもしれないし、冷蔵庫の中では次々と食品が寿命を迎えているだろう。一度家に帰ってブレーカーを落としておけば良かった。待機電力が地球を痛めつけている。申し訳ない。まあいいか。
ベッドから起き上がる。モーニングサービスが運ばれてくる前にマスターと話がしたかった。いつまでもこんなヒモみたいな生活に甘えているわけにはいかない。マスターに申し訳ない。これは、まあいいかで片付けられる問題ではなかった。
「マスター、おはようござ」
カウンターに立っている者を見て、いかんなと思う。
「ああ、これ夢か。昨日夜更ししたからかな」
「夢ではありませんよ。あなたはしっかり起きていますし、私は、あなたにマスターと呼ばれている者です」
両手を広げ、おどけて見せる、猫。いや、猫獣人。人間の形をしていて全身はダークグレーの短毛に覆われている。頭は猫そのもので、琥珀のような双眸が光る。
「誰」
「私は、あなたにマスターと呼ばれ」
「違うじゃん!」
猫獣人は嫌いじゃない。正直に言えば好きだ。昨日だって、猫獣人の優しい彼氏と、人間の女の子のほっこり甘々なラブコメ漫画を……。あっ。
「マスター」
「そうですよ。なんでしょうか」
「私がマスターを猫にしてしまったかもしれません」
「そういうことですか」
マスターは納得したようだった。なんでよ。
「以前にもありまして。二本の角が生えた悪魔でした。体も大きくなってカウンターに入るのに苦労しました。あのときも驚かれましたね」
フフッと思い出し笑いをしている。ちょっと安心した。マスターに降り掛かったのは永遠に解けない猫獣人変化の呪いではないらしい。
「昨日読んだ漫画、猫の彼氏が出てきて、すんごいかっこよかったんですよ」
「それは良かったです。漫画はたくさんありますから、どうぞお楽しみください」
「そうじゃなくて! たぶん、私がかっこいいと思ったものが、妄想の中の彼氏像が、マスターに映し出されてしまったのかも……マスターが、かっこいいから?」
マスターの耳がピクリとする(頭そのものが猫になってしまっているので、耳は頭に生えている)。
「これは……褒められて、いるのでしょうね。ありがとうございます、ニャ。そろそろモーニングサービスのお時間ですよ。よろしければ、お部屋でお待ちください」
「手伝います。そのために来たので」
「いえいえ、結構ですよ。ご自分のお好きなように時間をお過ごしください」
トースターに食パンを挿し込み、フライパンを火にかけ、冷蔵庫から卵とハムを取り出す。私のことは忘れたみたいに朝食の準備を始めてしまう。見事な手際で。
私がいなくても、マスターはこの店を毎日営業できるのだし、働き者の後輩ちゃんがいれば会社は回るのだろうし、あの人とあの子は二人手を取って幸せに暮らしていけるのだろう。だから、言うはずじゃなかった言葉が漏れてしまう。
「マスターも、私を必要としてくれないんですか」
今度は、ヒゲをピクピクさせた(頭そのものが猫になってしまっているので、ヒゲというのはもちろんあのヒゲのことだ)。顎に手をあてて、何やら思案している様子だ。猫になっても背中はなめらかなS字を描いていて、立ち姿は変わらず美しかった。顎の輪郭と淡いピンクの爪に見惚れていたから、マスターがふいにこちらを向きハッとする。
「ハムエッグは作れますか。やけどしないように気を付けてくださいね」
私は誰でも作れるハムエッグを焼き、マスターは狭いキッチンカウンターの中を猫のようなしなやかさで歩き回った(猫のようなではなかった。猫そのものだ)。ときおり猫マスターの尻尾が腰をかすめて、その度にふわあっとした感覚が走った。マスターは気付いていないようだった。罪な人だ。
調子に乗ってランチの手伝いも名乗り出た。レシピを見ながら作ったのに、完成したのはトマトリゾットではなく、でんぷんのりでも混ぜたみたいなベタベタした赤いお粥だった。二人分のそれを、一人と一匹で笑いながらスプーンでつついた。
そう、二人分だった。モーニングもランチも。マスターの分を除けば、提供されていたのは私だけだった、ということになる。訊けば、「あなたが初めて来た日から、他には誰も来ていませんよ」とのことだ。確かにマスター以外の誰とも会わなかったけれど、みんな私のように個室に閉じこもっているものと思っていた。いよいよ、この店の経営がどうやって成り立っているのか気になってしまう。
ランチの後、カウンターでマスターと一緒にコーヒーをいただいた。コーヒーの淹れ方に明るくない私の前で、マスターは豆を挽き、こぽこぽと音を立てる物々しい装置でゆっくりと抽出した。
お客さん用のイスに、キッチンの方を向いて座る。こうして二人で横に並んでお茶をするのは初めてだった。せっかくだから、気になることはひととおり訊いておこうかと思った。でも、一つ気がかりなのは……あのときの「全くご心配には及びません」は。今なら分かる。柔らかい言葉を選ぶマスターにしては強い意志のようなものを感じた。なるべく遠回りに探った方が得策だろう。
「マスターは、どうしてこういうお店を開こうと思ったんですか」
ふーむ、とマスターは唸る。
「どうして、と訊かれると、難しいですね」
コーヒーを一口すする。三角形をした猫の口で、なんてことないように。舌は大丈夫なのだろうか。
「あなたがこの店に来たとき……あなたのために、あなたの居場所を提供すると言ったのを覚えていますか」
「はい」
「ここは、必要とされない時間を過ごすための場所です」
マスターは真っ直ぐ前を向いたまま、いつもの穏やかさで、そしていつもより密やかに語り始めた。
「人から必要とされるのは嬉しいことですね。でも、常に必要とされるのは疲れてしまいます。だから必要とされない時間が必要なのです。逆に、自分は必要とされていないと思いこんでしまうこともあるでしょう。でも、必要とされない人などいないのです。誰かがあなたを必要としている。必要性が忘れられているだけなのです。だから必要とされない時間を作るのです。じりじりと時間が過ぎるうち、あなたが必要なのだと痛いほど味わう人が現れます」
必要とされない時間が必要。
必要。必要。必要、ね。必要って、なんだったっけ。
ゆったりとした動作でカップに口をつけ、続ける。
「動物とは本来、自分の命は自分で守り、自分の必要は自分で満たすものです。それが進化の過程で社会性を身に付け、お互いに守り合ったり支え合ったりするようになった。良い面を挙げるなら、助け合える世界になった。悪い面を挙げるなら、複雑な社会になりました。複雑な社会というのがどういうものか、あなたなら分かりますね」
痛いほど思い知っている。マスターの横顔に向かって頷く。
「どこに行っても、その土地は誰かの持ち物であり、誰かの目があり、別に助けなんて要らないのに声を掛けられ、逆に助けてほしいときに限って声が届かないこともある。人間はお互いを必要とせずにはいられない生き物でありながら、必要の受け渡しを完全にはコントロールできないのです。人間というのは、面倒なものですね」
そうでしょう? とでも言うように、マスターは苦笑いする。猫の姿で「人間は面倒」なんて言われると、ちょっと面白い。
「あなたも知らずしらずのうちに、もしくは真正面から、そういう面倒事に巻き込まれたのでしょう。だから、このお店があなたの前に現れたのです」
このお店は、確かに私の居場所だった。よく分からないうちに流されるようにお世話になった不思議だらけの場所だけれど、そういうことがあってもいいんじゃないか。
ですから、と前置きして、マスターは私に向かい合った。
「必要とされないことが必要なくなったら、タグをお返しいただければいいのです」
部屋に置いてきたタグのことを思う。いつ返すことになるのだろう。今日か明日か、もう一週間してからか。いつ必要とされないことが必要なくなるのか、分からない。
「私ばかり話しすぎましたね。失礼しました。あなたのお話も聞かせてください」
抱いていた疑問はいつの間にか胸の中で溶けていて、お店のことはそれ以上何も訊かなかった。代わりに、猫彼の漫画について話した。マスターは適切なタイミングを選んで相槌を打ち、耳とヒゲを揺らしながら興味深そうに聞いてくれた。
昨日のランチへのリベンジを誓い、今日も朝から手伝いをしようと意気込んでいた。食を極めるは茨の道なり。いざゆかん、美食の戦場へ。気合い十分でドアを開けるなり、スマホが鳴った。嫌な予感しかしない。ついに解雇通告か、はたまた離婚宣告か。着信は会社からだった。解雇の方か。
「おい、お前どこにいるんだ。みんな必死になってお前を探してるんだぞ」
またこれだ。
「言いたくないです」
「子供みたいなわがまま言うな。困ってるんだよ」
困っている……?
「俺は別に困らないけど、他の奴らが騒いでるんだ」
要らんことを付け加えるジジイだ。
「決算が近いのに、経理のシステムが動かないんだ。お前じゃないと分からないらしい」
ああ、そういえばそんな時期だなぁと。うちの決算はなぜか夏だった。私でなければシステムを動かせないということはないと思うが。日頃から部下に面倒事を全て丸投げしているから、みんなの言うことを鵜呑みにしているのだろう。
「そういうわけだから、戻ってこいよ」
偉そうに。それが完全に被害者である人に向ける言葉か。
「課長は、私のことが必要ですか」
「はぁ? リュー・ド・ルポの季節限定、五つ買ってきたんだ。三時休憩に食べる」
私なりに重要な問いだったのに、脈絡のない話が挟み込まれた。
「何の自慢ですか。五つも食べたらお腹壊しますよ」
「馬鹿! 人数分だ」
うちの課は、課長も含めれば六人だ。一応、私も頭数に入れればの話だが。
「じゃあ私が戻ったら足らないじゃないですか」
「お一人様五つまでだったんだよ。俺は昨日食べたからいい。お前の分はある。ケーキ好きだって、この前の電話で言ってただろ」
面食らった。課長が人にケーキを買ってくるなんて初めてだし、しかもまさか自分を差し置いてだなんて!
「まあ、そういうことなら。なかなかのエサを用意されましたね。考えておきます」
「考えておくってお前、それは体の良い断り文句じゃ」
終話ボタンを押すと課長の声が途切れた。電話というのはなかなかに便利なものだ。自分の気が済んだら切ってしまえばいいのだから。複雑な社会にはマストなツールだ。
スマホをテーブルに置いて部屋を出ようとすると、また鳴り始めた。課長から二度目の催促だろうと手に取り、凍りつく。表示されていたのは、あの人の名前だ。指が急に震えだす。受話ボタンを押す。
「ごめんなさい」
私の第一声にかぶさるように、受話器の向こうから子供の泣き声が聞こえる。娘だ。
「何かあったの」
「大した用事じゃないんだけど……」
ずっと連絡を取っていなかった旧友に、気まぐれで電話をかけているわけじゃない。大した用事じゃないなら、尚のこと連絡をよこすなんてしないだろう。
「言って。なんでもするから」
当然、それが私の好きなことじゃなくても。たとえ、私にできないことだとしても。次からは、最低限の荷物に入れてもらえるように。
「スカートに付いてたフリル、外で遊んでるとき取れちゃったらしくて。寝ている間に俺が縫い付けておいたら、朝になってめちゃくちゃ泣いてるんだ。別に仕上がりは悪くないはずなのに。ママがやってくれないと嫌だって」
聞けば、家から程ない距離の安いビジネスホテルに泊まっているらしい。すぐにでも駆けつけられる。今から行く、と告げると、「待ってる」と安堵した声が返ってきた。
「ねぇ、私さ、あなた達二人に必要とされてるかな」
「お前こそ、俺達のこと必要としてるの?」
もっともだった。マスターの言葉を思い出す。本当に人間は、必要の受け渡しを完全にはコントロールできないのだ。コントロールするどころか、受けているのか渡しているのかさえ分からないほどに。
「そうだよね。ごめん、すぐに行くから」と電話を切る。
マスターはいつものようにカップを拭いていて、私の姿を見るなり「おはようございます」と律儀に会釈した。なんと、人間の姿に戻っている! が、今はそれどころではない。
「外に出る用事ができました。一旦タグをお返しします」
マスターは「分かりました」とだけ言って、何も訊かなかった。
「あの、やっぱり少しお代を出させてください。用が済んだら戻ってくるので」
微笑みを絶やさないまま、肯定の言葉も、拒否の言葉も口にしない。
「絶対に来ます、だから」
マスターは口元に、すっと指を一本立てて。
「お気になさらず。あなたの心のままに。ニャー」
冗談めかした鳴き声を合図にしたかのように、入り口の扉がひとりでに開いた。自動ドアじゃなかったはず。どこまでも不思議なお店だ。生ぬるい風が流れ込む。
「お気を付けて」
気遣いの言葉に背中を押され、照りつける日の下へ足を踏み出す。直射日光のない、空調の効いた空間にいたから忘れていた。屋外が生き物に優しくない季節だったことを。うわあ、あっついよマスター。溶けちゃうよ。もう既に店に戻りたいんですが。
出鼻をくじかれ、すがるように振り返る。
そこにあったのは、狭い空き地だった。
交差点を忙しなく車が行き交う。入れ代わり立ち代わり店が建ち、空き地になってしまえば何が建っていたのか忘れてしまうような角地のことなど全く気にも留めず、次々と走り去っていく。むせるような排気ガスの熱が目に染みる。左手にはさっきまで握りしめていたタグの跡が、腰にはマスターが尻尾で触れた感触が、耳にはテノールの囁きが、確かに残っている。
必要とされないことが必要なくなったら。ぽつりと口にしてみる。小さな音は初夏のアスファルトの上に落ち、車道まで転がって、タイヤの群れに消える。
鼻から深く息を吸う。きっと、どこかの誰かの居場所となるために、移転したのだ。マスターはそこでモーニングとランチを作り、カップを磨き、香ばしい匂いのする装置で淹れたコーヒーを飲みながら、人間ではない生き物の姿で人間の複雑な社会について穏やかに語るのだ。
歩行者用信号が青に変わる。横断歩道を往くのは私一人だけだった。まず家に寄って裁縫道具と生地を持ち出して、あの人と娘がいるビジネスホテルへ。会社に行く前に、リュー・ド・ルポの季節限定ケーキを一つ買っていこう。
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