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レジカウンターにカゴを置いたのは、トム・ホランドだった。若手ハリウッド俳優の、あのトム・ホランドだ。彼の代名詞とも言える遊び心のあるツーブロックショートは、今日も艷やかだ。緩やかなカーブを描いた眉の下に、くっきりとした二重と豊かな涙袋。鼻筋が堂々と顔の中心を滑り、上下の唇は固く結ばれていて、若干頬が膨らんでいる。「口の中にカエルを隠している」とインターネットミームになった、あの口そのままだ。
東京のコンビニで働いていると芸能人を見かける機会がままある、というのは都市伝説だと思っていた。ドラマや映画に出ている俳優はもちろん、たとえ世間に認知されていなくても芸能界に指先をかけていそうな人物ならば、舞台俳優や声優や地下アイドルまで大体分かるけれど、脳内データベースが活かされたことは一度も無かった。
芸能界に入る鍵は人脈だ。どれだけ顔が利く人と繋がるか、チャンスを見逃さないか。それが全てだ。歌が上手くても背が高くても顔が良くても五秒で涙を流せても、人脈が無ければ意味は無い。逆を言えば、何もできなくても人脈さえあれば芸能界で働ける。入り口は何でもいい。芸能界に入りさえすれば後はなんとかなる……と思っていたのに、何一つ掴めずにコンビニバイトから抜け出せない。フルタイムに加え、突発の穴埋めでシフトに入りまくっているものだから、バイト君達から本社からのお目付け役なのではないかと噂されているらしい。今日も夜十時からピンチヒッターを依頼されてしまった。腕時計を見れば、日を越えている。深夜二時の店舗はがらんどうだ。
そろそろ三度目の有休が発生する。このコンビニの顔になってしまう。
東京なんて出てこなければ良かった。コンビニバイトでは生きていくのがやっとだ。社会保険料はガッツリ引かれ、物価は高い、家賃は地元の比ではない。泳ぎ続けないと死ぬというのはこういうことか。
それが、今。初めて接客する芸能人がハリウッド俳優だなんて、それもトム・ホランドだなんて、とんでもないミラクルだ。一番お気に入りの俳優。「インポッシブル」に始まり「スパイダーマン」も「白鯨との闘い」も何度観たか知れない。小動物を思わせるあどけない顔で、健気に家族を思う少年を演じ、鍛えられた肉体でアクションをこなす。取材を受けたときの無邪気な笑顔はモンスターエナジーなんて目じゃないほどの栄養剤になる。生きる美術品にして至高のエンターテイナー。画面越しではなく生で顔を拝めただけで、私の人生は大勝利だ。
「あの、すみません」
喋った。トム・ホランドが、私に。日本語で。耳がとろけて死んだ。
コンビニ店員である事実が完全に頭から飛んでいた。「うへぁ」だか「ひょわ」だか、謎の音が口から漏れて現実に着地した。カゴに手を入れる。
お高めなビールが二本と、ビーフジャーキーが一袋。
想像する。トム・ホランドが、コンビニでビールとおつまみを買っている。晩酌だろうか。ビールが二本? 一人で、それとも誰かと。日本に住んでいるはずはない、旅行なのか誰かに会いに来たのか。その誰かと? どこかのお店ではなく、宅飲み。
「大丈夫ですか」
声が降ってきて我に返る。また手が止まってしまっていた。見上げると、挙動不審な私をとがめる様子もなく、柔らかな笑みを浮かべている。目もとろけて死んだ。
笑った目元に懐かしさを覚えた。飼っていたホランドもこんな目をしていた。
二年と五ヶ月を一緒に過ごした。あの日から、蛍光灯のワット数を落としたみたいに部屋が暗い。ペットショップに並ぶたくさんのハムスターの中で、ホランドは大人びて見えた。小動物に大人っぽさや子供っぽさがあるものかと笑われるかもしれないけれど、少なくとも私にはホランドが他のハムスター達とは違って見えた。狂ったように滑車を回すゴールデンハムスターと、一心不乱に餌を頬張るジャンガリアンハムスターの間で、ホランドは澄ました顔でじっとしていた。物思いに耽っているのか、あるいはポエムを綴っているかのように。パールドワーフハムスターに大人しい個体が多いと知ったのは、ホランドを家に迎えてからだった。
透き通った真っ白な毛並み、垂れ目気味の愛らしい瞳、額から鼻までのラインは撫で心地が良い。名前の由来はもちろんトム・ホランドで、横顔が彼に似ていたからだった。
足の裏から尻尾まで柔らかい毛に覆われていて、手に乗せるとくすぐったくて温かい。ホランドの体温と私の手の熱が混ざり合うと、ホランドはうっとりと目を閉じて眠った。不器用さも彼の愛らしい一面だった。滑車に乗りたくて短い足をじたばたさせてみたり、丸い形のエサをあげると上手く掴めず拗ねてしまったり。
寂しさを埋め合わせるつもりで飼い始めたのに、失ってからは埋めようのない空白が目の前に広がっていて、途方に暮れてしまった。ホランドは、もういない。
トム・ホランドの目は、ホランドの目そのものだった。
袋に詰められていくビールとビーフジャーキー。そういえばこのビーフジャーキー、ホランドも好きだった。バイト終わりに晩酌のつまみに買って帰って、小さくちぎってあげたっけ。それだけで泣けてきてしまう。我慢しようと思っても目がうるむ。こんなに早く泣けるなら女優も目指せるだろうか。
「九百九十三円です……」
声も沈んで出てしまう。自分を偽れない女優に使い道は無さそうだ。
千円札を差し出しながら、トム・ホランドは言う。
「領収書をください」
宅飲みって経費で落としていいのかな。千円程度で領収書だなんて意外と庶民的。
「宛名はどうされますか」
「ひとときの癒しをお届けするチュパカブラ財団、で」
はっ?
「すみません、もう一度よろしいですか」
「ひとときの癒しをお届けするチュパカブラ財団、です。ひとときはひらがな、癒しは漢字で送り仮名は『し』、届けが漢字、チュパカブラはカタカナ」
言われたとおりにボールペンを走らせながら、混乱した。まず、「癒し」の漢字が分からずに、おまけに得体の知れない財団に関わっていると知らされて。からかわれているのかもしれない。ハリウッドでは店員をもてあそぶことが流行っているのだろうか。
それでも構わない。きっとトム・ホランドの来店は、私へのひとときの癒しのお届けなのだ。飛び込んで行きたい世界の前でいつまでも足踏みしていたり、唯一の心の拠り所だったホランドを亡くしたり、今日なんて夏風邪を引いたバイト君の穴埋め出勤で、楽しみにしていたフラワーパークのレーザーショーを諦めたり。散々な私を慰めるためにトム・ホランドは現れたのだ。
もう十分だ。こんな幸運に出会えたのなら。どうせ芸能界には入れないし、ホランドとの思い出が私をどこまでも寂しくさせる。地元に戻って婚活でもしよう。
……をいただけますか、とトム・ホランドが言った。
頭は別のことに働いていたから、よく聞き取れなかった。お箸を使うものは無いし、温めるものもない。ああ、おてふきかなと思って、「はいどうぞ」と差し出す。
トム・ホランドが手を伸ばし、おてふきを素通りして、私の両脇をすり抜けて背中へ。顔に似合わないたくましい両腕に力が加わり、私は前のめりになる。トム・ホランドの整った顔が急接近して、私の頭の横へ。耳元に吐息を感じる。
何が起きているのか分からなかった。いや、起きていることは単純かつ明快だった。トム・ホランドにハグされている。なぜそんなことをするのかは全く見当が付かない。
首筋にトム・ホランドの唇が触れる。そして、犬歯が私の皮膚を破った。局所的にじわりと温かくなる。痛みは無い。あっけにとられ、腰を折ったままの姿勢で牙を受け入れていた。あまりのことにのぼせていた頭は徐々に熱を失ってきて、スッとする。この感覚は採血されるときと同じだ。ようやく自分の異常な状況を飲み込めた。どうやらこれは、実際に血を抜かれている。
「あの、これ、なんですか」
動いたら首が裂けてしまう。頭を動かさずに訴えると、ゆっくりと牙が引き抜かれた。「ごちそうさま」と口元をおてふきで拭っている。ならば【おくちふき】と呼ぶべきか。
頭が回らない。脳に血が足りないのだろう。たとえ脳に潤沢に酸素があってまともな思考ができたとしても、こんなまともではない出来事を理解しようなんて無理な話だ。
「あっさり許してもらえたから気付かなかった。吸血されるのは初めてでしたか」
厳密に言えばファースト吸血は蚊に奪われているのだろう、と下らないことを考えたけれど口には出さなかった。そうか、あのときトム・ホランドは「血をいただけますか」と言ったのか。
「じゃあ、行きましょうか」
「どこへ」
「フラワーパーク。レーザーショー、見たかったんでしょう」
誰にも話していない。店先にフラワーパークの広告ポスターを貼りながら、レーザーショーなんて物珍しいものがあるのかと興味をそそられたのだった。それにハリウッド俳優がコンビニ店員の予定を把握する理由なんて皆無だ。
わけも分からず血を吸われ、バイト中なのに出掛けようと言われている。全ては冗談なのかもしれない。もしくは、貼られたポスターを見てナンパの口実を思い付いたとか。ならば相手は選んでほしい。一緒にいられるところを他のファンに見られたら地球上に私の居場所が無くなる。
「行けません」
「ご心配なく。時間をさかのぼるから、お店は無人になりません」
そういう問題ではない。私の呆れ顔に構わず、トム・ホランドは続ける。
「その顔は信じていませんね? あなたの耳の中には三つの管が入っている。それぞれが垂直に、つまり違う方向を向いて。部屋の中を想像してみて。そう、次に天井と壁が交わっている隅を見て。壁がX軸、もう一つの壁がY軸、天井はZ軸。順番はどうでもいい。つまり君の耳には、そういう形で三半規管が詰まっている。僕達は、四半規管を持っている。君達は三次元の空間でバランスを取り、僕達は時間を加えた四次元の世界でバランスを取っている。分かってもらえたかな」
饒舌になるにつれ、ですます調を保てなくなっている。ハリウッド俳優に言葉の上で礼節を求めはしないから気にはしない。そんなハッタリまで口にして私を連れ出したい理由も気にならなかった。
「そこまで言うなら行きましょう。できるものなら」
どうせ嘘なのだから。夢のような時間はここまでだ。
つまらなそうに溜息をつき、商品の入った袋を掴み、私に背を向け、自動ドアへ躊躇なく、宅飲みを待つセレブな誰かの元へ……という予想は裏切られ。
トム・ホランドは力強く私の手を握り、恋人同士がするように指を絡ませた。
「せーの」
トム・ホランドの声がした直後、蒸し暑さが全身を包んだ。無意識に閉じていた目を開くと、暗かった。電灯は無い。湿気を帯びたぬるい風が肌を湿らせる。霧雨が降っているようにも見えた。見渡す限り白く煙っている。周囲はまばらに人影が揺れ、ささめきが聞こえる。
「ようこそ、君が過ごせなかった時間へ」
空を見上げれば月が出ていた。雨雲は見えなくて、雨に煙っているのではないのだと気付いた。煙の元を探すと、もやもやと白いものを吹き出す柱が見えた。スモークを作る装置のようだ。正面には黒々とした大きな池。胸の高さまで転落防止の柵があることに気付く。かすかに甘い匂いが漂っている。名前は分からないけれど、花の匂いだろう。
トム・ホランドは、本当にフラワーパークに、それも過去へと跳躍してみせたのだ。
横顔を見上げる。ほのかに差す月光の下、石膏像のように確固たる造形の骨格。そこにあったのはホランドの横顔だった。
よくよく見ればトム・ホランドよりもホランドに似ていて、トム・ホランドがどんな顔をしていたのか思い出せなくなった。月の光で化けの皮を剥がされたようにその顔はどこまでもホランドだった。この私が人の顔を見間違えるなんて。
水辺の夜風は冷たい。急に寒気がして、身震いする。トム・ホランドでないのなら、これは誰なのだろう。ホランドの生き写しのようなこの生き物は。
「あなたは誰なの」
「舞台女優のセリフみたいだね」
ホランドが笑う。
「せっかく買ってきたんだ。一杯どう」
レジ袋からビールを一本手渡される。抜群に冷えていて、内心で苦笑する。
いつの間にかホランドは私の真後ろに立っていた。背中越しに体温が伝わってくる。ほどよく筋肉の付いたつるりとした腕で、私を温めるように抱きすくめる。
「始まるよ」
鼓膜を揺らすほどの大音量で音楽が流れ出した。映画「E.T.」のテーマ曲だった。満月をバックに、自転車に乗った少年と、カゴに乗せられた地球外生命体が空を飛ぶ、有名なラストシーン。
チュパカブラなんてものはよく知らない。エイリアンだかプレデターだか火星人だかそのあたりと大差ない。私にとっては。ただ、ホランドの優しい熱は確かにここにある。私の血液がホランドの血管を巡っていて、ホランドの熱が私の血液を肌の上から温める。私達はもう、どうしようもなく繋がり合ってしまっている。
池の向こう側で、緑色のレーザー光がいくつも現れた。扇状に広がって真っ暗な空を突き抜ける。ゆったりとこちらへ角度を倒すと、レーザー光の末端は私達を通り越して遥か後方へと消失していく。目で追ってみても、その果ては知れなかった。前方へ視線を戻せば、レーザー光はスモークにぶつかり平らにされ帯状になっていた。宙空にできあがった光の絨毯がゆらゆら波打つ。レーザー光が通過する道を、風に流されたスモークが雲のように横切っては消えていく。夜闇は煙り、光が戯れ、夏夜に霞の花が咲く。眼前で繰り広げられる全てが幻みたいで息を呑んだ。
ショーは二十分ほどで、またたく間に終盤を迎える。
ホランドが手首に提げたレジ袋からビーフジャーキーを取り出して、ホランドの口に運ぶ。ちぎってあげる必要はなかった。
「僕が誰なのかって訊いたね。まあ、領収書のとおりだよ。僕はチュパカブラになって人にささやかな癒しを届ける活動をしているってわけ」
ずっと黙っていたホランドが突然口を開いた。でも、その問いの答えはもうどうでもよくなっていた。ホランドが嘘を付いているかどうかも、そもそも本当にホランドなのかも、チュパカブラ財団がなんなのかなんて特にどうでもよかった。
ふと、財布がロッカーに置きっぱなしになっているのを思い出した。
「どうしよう。何も持ってきてないから、ここの料金払えない」
「チケットは先払いだよ。買ってからコンビニに行ったんだ。ちゃんと領収書もある。君に断られたら、ここには戻って来られなかった」
「どういうこと?」
「ジャンプした先の座標でバランスを取るのは、なかなかに難しいんだ。二人分なら、なおさら。ここにいられるのは君の血を吸ったおかげだよ。チュパカブラにとって血液はモンスターエナジーみたいなものさ。でも僕は不器用だから、本当は少し苦手でね」
周りから、わっと声が上がる。皆の視線の先を追えば、月を背負ったペガサスが天を駆けている。スモークの雲海を雄々しく蹴りながら、ゆっくりゆっくりと移動していく。レーザー光でこんなにもはっきりと形を映せるのは驚きだ。
「血を吸われても、こんなに綺麗なショーが見られたのは儲けものかな」
ショーが終わり、辺りに暗がりが戻ってくる。
帰ろうか、とホランドは私の背中から離れて、手を握る。真正面から見るホランドも抜かり無く美しい顔立ちだ。
「僕は嬉しかったんだよ」
何が、と訊くより早く、ホランドは続ける。
「チュパカブラの吸血は、それなりに特別な儀式なんだ。特別で、厳粛で、本質的で。要するに、吸血の申し入れをするのは、」
さっきみたいに指を絡ませ、ぐっと力をこめて。
「最も親密な人への愛情表現なんだ」
景色が一変した。LED照明が眩しい。整然と並んだ商品棚。狭いレジカウンター。
ホランドも、トム・ホランドも、もういなかった。ホランドの体温が手に染み付いているだけだった。
腕時計を見れば、午前一時。彼がやって来た時間より、一時間も早く着いてしまった。彼が言ったとおり、彼はジャンプが少し苦手で、それは不器用だからなのだろう。
首筋に手を当てると、破れたはずの皮膚は元に戻っている。彼が特別に残した二つのくぼみに、指先でそっと触れた。
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