少女達の対価

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 普通に、普通に生きたかった。普通に生まれて。普通に育って。普通に恋をして。普通に愛して。普通に愛されて。普通に退屈したり普通を求めたりせず、普通が飽和して普通を平凡だと笑うくらいの普通に恵まれていたら、私はまともでいられた。  十五で逃げるように家を出た。たらい回しの末に行き着いた、それでも比較的まともだった家を。体があれば生きていけた。どこでも誰とでも繋がれるのはネットのおかげじゃない。そんなものなくても人を選ばなければ繋がれるし、あったって繋がれない人もいる。無一文でもスマホが無くても道端にしゃがんでいれば雨風しのげる場所へ連れて行ってくれる人はいくらでもいた。タダの人もいればそうじゃない人もいたけれど。繋がるだけなら簡単だった。暗黙に対価を求められれば私は唯一の決済方法を使った。ギブアンドテイクだから当然なのにたまにはお金をくれる人もいて、いつもと同じ場所に座っていれば何度でも会えた。ふと嫌になったらそこに行かなければいいだけだった。繋がりを断つのだって簡単だった。  ずっと居てもいい、と言ってくれる人がいた。背の高いマンションを所有していて、その高いところに住んでいて、隣の部屋を使わせてくれた。対価にその人の店で働いた。客を取れなければ居たたまれないと思ったけれど、繋がるための、繋がり続けるための(すべ)なら誰にも負けなかった。  家賃を払わせてほしいと頼んだのは対価のすり替えだった。きっと分かっていたはずなのに、それでいい、と言ってくれた。おかげで口座にたんまりお金が貯まったから、道端で座り込んでいる少女に「隣の部屋の人によろしく」とマンションへの地図と鍵と店の名刺を渡した。親切は天下の回りものであるべきだ。静かな町でアパートを借りた。  * * *  普通じゃなくなるきっかけなんて分かりっこない。それでも予兆というべきか萌芽(ほうが)というべきか小さな自覚はあった。目で追っている自分に気付いた。近所のコンビニで、散歩に出掛けた公園で、通勤路上にある通学路で。棒きれのような四肢、つるりと白いふくらはぎ、汗が伝う首筋、肉の薄い腰回り。糸で引っ張られるように少女の未成熟な体躯(たいく)に惹かれた。目を背ければ良かったのに種火が灯ってしまうと暗い炎は勢いを増すばかりだった。  いつもの散歩コースには両手に畑の広がる通りがあった。だだっ広い畑の隅っこで、少女がしゃがみこんでいた。しまむらで売っていそうな赤のセーターを着て、いつかの家出少女とは違う生き物みたいだった。少女の前で白い煙が上がっている。 一歩近付くごとに鼓動が強まった。 「何してるの」  素早くあたりを見回す。誰もいなかった。 「落ち葉焚き。おじいちゃんの畑ならやっていいって」  小さな枯れ葉の山の中にあかあかと燃える火があった。穏やかなリズムで明るい赤と暗い赤を交互に行き来している。 「枯れ葉を少し濡らしておくとゆっくり燃えるの。思いっきり燃やすより、こっちの方が好き」  晩秋の西陽が赤く燃え上がり地上を橙色に染め上げている。引火性の葉をじりじりと焼く赤の明滅はぐっすり寝入った子供の呼吸みたいだ。少女の頬は焚き火の遠赤外線に当てられて赤く火照っている。額にうっすらと汗をにじませて、赤いセーターの首元を開けてぱたぱたとやっている。赤。ここは赤に塗れている。私の中で、深紅の炎が頭をもたげた。 「うちに里芋があったっけ。ここで焼いたらおいしいだろうな」  里芋! と立ち上がった少女は思いのほか背丈があった。小学生の、高学年だろうと見当を付けた。 「お姉さんの家にあるの」 「うん。取りに行こうか。火は一旦消さないとね」  少女は枯れ葉の山を崩して広げ、バケツの水をかけた。  玄関先で少女が「部屋の中見たい」という。扉を開けて促すと、全く遠慮する様子も無く「お邪魔します」と上がり込んだ。  鍵と、チェーンロックをかける。上々だった。いや、上手く運びすぎているようにも思えた。いくら田舎の子供とはいえ、警戒心が微塵も感じられなくて不安でさえある。少しでもためらってくれたら、抵抗してくれたら、引き返せたかもしれないのに。 「きれいにしてるね」  少女が断りもなく腰掛けた簡易ベッドが、キィと鳴いた。眼裏で炎がくらりと揺らぐ。一歩、一歩と少女に歩み寄る度、じり、じりりと理性が焼かれていく。細い両肩に掌をあてて優しく押さえつける。思ったとおり肌理(きめ)細かく美しい肌。子供特有のミルクのような甘い匂いに脳が(とろ)ける。  少女の表情には恐怖も困惑もなく、観察するように私の目を見返していた。 「だめじゃない、こんな簡単に知らない大人に付いてきちゃ」  拍動がこれ以上ないほどの速度で急き立てる。  あと少し、あと数センチ、踏み込んでしまえ。後戻りできない境界線を踏み越えろ。復路の無い高速道を最高速で突き進め。汚れなき白い躯体を覆う邪魔な赤を取り払い、その肌に、焼け(ただ)れた両手で消えることのない焼印を。もう普通に生きられないのなら、流されるままに業火へ向かうしかないのだから。  * * *  初めて対価を払った日。鼻息荒く後ろからしがみつかれて脳裏をよぎったのは怪しげなサイトで見た動画だった。泊めてくれた人がシャワーを浴びている間、勝手にノートパソコンを拝借して、馬ってどんな交尾するんだろうなと興味本位で調べたのだった。  (つや)やかな栗毛の馬が芝生で尻尾を振りながら乾草(ほしくさ)を食んでいる。腹の下にブロンドのロングヘアーの女性がもぐりこんで膝立ちしている。女性は全裸だった。馬から垂れ下がった円柱はピンクと茶色の斑模様で、女性はそれを愛しげに両手で撫で回し、頬擦りしたり口付けしたりしている。場面が変わり、薄暗い厩舎(きゅうしゃ)が映し出された。鉄製の柵を両手で握っている女性に馬が覆いかぶさる。荒い吐息を繰り返し漏らしながら屹立(きつりつ)したものを女性の股にあてがった。 「そういうのが好み?」と背後から声をかけられて画面を閉じた。  どこを触られてもどれだけ甘い言葉を囁かれても動画が頭から離れなくて、「さっきみたいにしてあげようか」と言われるままにされている間、泥臭いような生臭いようなありもしないのに馬の匂いが漂っている気がした。  どうしようもなく気持ち悪くなったのはその時だけだった。その後もしばらくは軽い幻臭に戸惑っていたけれど、時経つうちに慣れてしまった。対価を変えるつもりはなかったし代えのきくものも無かったから何も変わらなかった。ただ、テレビに馬が映るとなんとなくチャンネルを替えるようになった。  * * *  少女を促して共にベッドに上がり馬乗りになって組み敷いた後、例の動画を思い出していた。私もブロンドの女性も後ろからだったのに、少女を真正面から押さえつけても『馬乗り』と呼ぶんだなと下らないことを考えていた。少女は口を真一文字にしたまま叫びも暴れもしなかった。抵抗する気がないのか恐怖で身動きできないのかは判断しかねた。どちらにせよ今の自分は、家畜の臭いを撒き散らしながら馬のように鼻息荒く腰を振っていたあの人達と大差ないのだと思うと嫌気がした。 「ねえ、おねえさあん」  甘ったるい声、媚びたように上がる語尾。知っている。これは絡め取るための策だ。必要以上に傷付けられず、逃さず、完遂させるための。私もかつてそうだった。 「じっとしてるけど、何もしないの」  少女の目が出会ったときとは違っていた。獲物を捕えて満足げな目に見えた。背筋に寒気が走り全身に汗がにじむ。少女の腕を掴む掌もじわりと湿る。マウントポジションをとりながら優位に立っているのは私ではない。少女は勝利を宣言するように笑った。 「誘い方が下手すぎ。あんなに小さい火で、里芋が焼けるわけないじゃん」  合点がいった。見知らぬ大人の誘いを何の躊躇いもなく受け入れたのも、自ら付いてきたのも、家に入りたがったのも。里芋に食いつかないならさつまいもにしようとか、家に付いてくる気がなければ「持ちきれないから手伝って」と自尊心をくすぐってやろうとか、子供相手の策を巡らしていたのが馬鹿みたいに思えた。たかが小学生だと高をくくっていた自分の方がよっぽど子供じみていた。誘いの言葉を口にした時点で少女の術中に陥っていたのだ。私がどんな手を使おうとも、もしかしたら使っていなくても、少女は私から対価をむしり取るつもりだったに違いない。つまりは、 「触りたければ触ってもいいよ。ところでさ、今ちょっとお金ないんだよね」  この時を待っていたのだ。品定めして、暴力で制する人間ではないと確信して、取引を持ちかける。交渉の余地など無い取引、脅しと言っても差し支えない。かつての私もまれに使った手だった。 「女の人は初めてだなぁ。お姉さんは男が嫌いなの」 「嫌いかもしれない。私、普通じゃないから」 「そう、普通だと思うけど」 「え、」 「私からしたら、みんな同じ。私を求める人は、みんな同じ手を使うし、私に同じことをする。それって普通」  平手打ちされたみたいだった。急に力が抜けて押さえつけるのもままならなかった。少女が上体を起こそうとすると、体の重心が後ろに傾いた私はベッドに尻もちをついた。  そんなことで普通に分類されたくなかった。少女からどんな目を向けられているのかを見るのが怖くて顔を覆った。それでも足りない気がして三角座りした膝に顔を埋めた。みっともなく泣いた。迷子の子供みたいに泣きじゃくった。恥も外聞も無かった。言葉の上で普通と言われた事実と、対価を求めた者達と同類に置かれた現実を、いっぺんに味わってしまって惨めさに耐えられなかった。少女はしばらく私を放っておいてから、 「よく分からないけど、泣き止んだら甘いものでも食べようよ」  と、小さく温かな手を私の頭に乗せた。いつの間にか暗い炎は消えていた。滂沱(ぼうだ)に消火されたのかもしれなかった。 * * *  田舎では車とイオンが無ければ生きていけない、と地元民が口にするのは半分冗談で半分本音だった。自動車保険の使用目的を『通勤・通学』ではなく『日常・レジャー』で契約している人間がどれほどいるだろう。私も例外ではなかった。洗車の行き届いていない軽自動車でイオンに向かい、「三段のアイスが食べたい」と少女が言うものだからサーティワンアイスクリームの長蛇の列に並んだ。三つ重ねるのは期間限定だった。会計は少女が持った。「乗せてもらったら何かおごるのが礼儀でしょ」と言う。少女なりの対価なのだろうが、田舎の嫌いな習慣の一つだった。  私と少女の三段目はクッキーアンドクリームで、一段消えるタイミングも同じだった。 「もしかして、これのためにお金がほしかったの」 「まさか」と、口角を人差し指で拭った。 「ここを出て東京に行くの。うちは居心地が悪いから」  少女が一人家を出て、はした金を持ち東京へ。ろくな事にならないのは目に見えていても私が引き止める道理は無かった。  落ち葉焚きをした畑で少女は降りた。 「今日のことは黙っといてあげるから、代わりにまたどこか連れて行って」  ぽつりぽつりと灯り始めた街灯。とっぷり暮れた世界に伸びるアスファルトを青色のLEDが飛び飛びに照らし出している。背中が見え隠れするのを見送りながら、少女の提示した対価について考えた。これは対等な取引ではない。少女は口を割るつもりなど無いだろうから。親切が回ってきたのは、私と少女、どちらだろうか。
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