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ぼくは二十七番目のアルファベットになった。楷書体の大文字のGを粗末に扱いすぎたからだ。自分の名前を書くときに一番面倒なのがGだった。なるべく楽をして書こうとするうちに、あるべき丸みは失われ潰れたハンバーガーのようになり、最後の横棒はただの結び目になった。始点と終点の位置は上下が逆さになることもあった。一筆書きされて、絡まりあった線。もはやGの面影はどこにも無かった。
学級担任のミナーヴァ先生は、名前を楷書体の大文字で書くよう全員に求めていた。ただの偏愛だった。そして、ぼくのGを見る度に目くじらを立てた。いつも黒板を指すときに使っている指揮棒でノートをつつく。
「そんな字がありますか。きちんとお書きなさい。Gに失礼でしょう」
鉛筆を握り直させ、皺だらけの骨ばった手でぼくの手をしっかりと掴む。
「いいですか。まず、ぐるりと反時計回りに。書き始めと縦の位置が合ったら止める。ここで鉛筆の先を紙から離してはなりません。そこから真っ直ぐに左へ」
書き方なら当然に知っている。五年生にもなって幼稚園児みたいに扱われるのは腹が立った。えばりんぼうのジョージが、だらしなく垂れ下がった頬肉をひくつかせて意地悪く笑いかけてくるのも癪に障った。彼もGに不誠実な一人だったけれど、ぱんぱんに膨らんだ手はミナーヴァ先生の手に余ったので、口頭で注意を受けるだけだった。
ミナーヴァ先生に指導されるたび、ぼくはへそを曲げ、Gは更に奇怪な姿へと変容していった。それはただの二重丸であったり、数字の3を鏡写しにした形だったり、短い螺旋階段のようであったりした。Gの名残は曲線であることだけだった。簡略化され、抽象化され、文字とも図形ともつかず意味をなさない記号になっていた。
「よくわかりました」
ノートを覗き込んだミナーヴァ先生の声が、頭上から降ってきた。
「あなたは文字の気持ちを知る必要があります」
決然と言い放ち、ぼくの目の前に立ち、指揮棒を振った。その先端から閃光が走り、ぼくの視界を一瞬にして奪った。おそるおそる目を開けると、ミナーヴァ先生がさっきよりも高い位置からぼくを見下ろしていた。あたりを見回すと、クラスメイト達の凍りついた表情があった。ジョージでさえ口をあんぐりと開けたまま頬肉を固まらせていた。
「あなたは二十七番目のアルファベットになりました。誰も読めず、誰も書けず、誰からも使われることのない文字です」
ミナーヴァ先生はぼくを指先でつまみ、事務机の抽き出しに放った。
「そこで反省なさい」
閉められてしまうと一切の光が遮断され、ぼくは暗闇に沈んだ。
抽き出しの中はどこを向いても暗がりで、もちろん、自分がどんな姿をしているかは分からなかった。体に触れる金属の板はひんやりとしている。外の音は耳をそばだてていれば聞き取れた。ときおり、どっと笑い声が湧いた。さっきの出来事もぼくのことも忘れ去られているようで、胸の奥がきゅうっと痛んだ。
ごめんなさい、ちゃんと書きますから、許してください。
心で叫んでみたけれど誰にも伝わらなかった。発声器官が無いのだから仕方がない。文字は誰かに呼ばれて初めて音を持つのだ。
チャイムが何度も鳴って、給食の時間にはおいしそうな匂いが漂ってきた。休み時間になってみんながバタバタと外に駆け出していくのが聞こえた。教室には、読書やお絵描きで時間を過ごす人達が残っているだろうか。彼らは日頃から静かだから、耳を澄ましても気配すら感じ取れない。ただ、誰も抽き出しを開けて救い出してくれないのは、ぼくを気にかけている人間が誰一人としていない証明だった。
午後の授業が始まっても、ぼくは文字のままで聞き耳を立てていた。五時間目は何の授業だっただろう。思い出したところで意味は無いけれど。
これからずっと、無名の、無音の、無用の、無意味な文字として、どこにも表記されずに、ありもしない出番を待ち続けるのだろうか。
Gの姿を頭に描いてみる。大変な猫背に見えて、その背骨が描く弧は見事なものだ。Cだって負けてはいないけれど、GはCよりも高度な姿勢を保っている。弧の先端には錘を抱えていて気を抜けば重心がずれてしまうのだ。生まれ持った質量に抗わなければうつ伏せに倒れ込んでしまうし、背筋に頼りすぎればひっくり返ってしまう。前にも後ろにも偏ること無く、もちろん滑らかな猫背も崩してはいけない。繊細なバランス感覚とそれを維持する強靭な精神力が、Gの美しい佇まいを支えているのだ。
ミナーヴァ先生がGに敬意を払うよう諭した理由がようやく分かった。ぼくは確かに間違っていた。Gを正しく扱わなかったのは一端にすぎない。もっと根っこの部分で、ぼくは大きな過ちを犯していたのだ。Gを丁寧にもてなさず、ミナーヴァ先生を軽んじ、ジョージを醜い肉の塊だと心で笑っていた。(ジョージのことはすぐに考えを改められないとしても、)それらはつまり、ぼくの傲慢さなのだった。
ならば、二十七番目として扱われるのはやむを得ない。抽き出しの奥で黴に蝕まれるパンのように忘れ去られていくのは当然の報いだ。
「余談ですが、かつて二十七番目のアルファベットだった文字を知っていますか」
ミナーヴァ先生の声だ。
「皆さんも、日頃使っていますよ」
クラスメイト達は、がやがやと予想しあっている。二十七番目ってことは最後なんだよな、最後といったらΩじゃないか。いやΩなんて普段使わないじゃないか。それなら$はどうだ。PとSを組み合わせたのが$だって聞いたことがあるよ、わざわざ最後のアルファベットにするかな。
ぱんぱん。ミナーヴァ先生が手を叩く。そしてチョークが黒板を滑る音。
「アンパサンド、と読みます。現代ではアンドとも呼ばれます」
ぼくは&を思い浮かべる。Gと同じく一筆書き。ミナーヴァ先生なら「途中で鉛筆の先を紙から離してはなりません」と忠告するに違いない。&も絶妙な平衡感覚で自身の形を保っている。二十七番目だった&はアルファベットの集団から姿を消しても立派に生き続けている。ぼくも、そうなれるだろうか。それなら、今のままでも悪くはないように思えた。
「では授業を終わります。プリントに名前を書いて提出しなさい」
みんなは鉛筆を走らせ、ぼくは自分の形を想像する。Gや&ほど精密な形でなくてもいい。ぼくが二十七番目のアルファベットだったことを誰もが忘れたとしても、いつの間にか日常に溶け込んでいるような、それでいて、無くてはならない文字になりたい。名前と、音と、使い道と、確かな意味を持った文字に。
突如、眩い光に包まれた。闇に慣れた虹彩は光の洪水に慌てふためき、網膜との連携を失い、痛みを伴う刺激だけがまぶたを通過した。
すぐそばで鉛筆と紙の摩擦音が聞こえる。極力薄く目を開けると、ジョージの顎の肉が頭上にあった。左を見やると背の低いEがいて、右を向けばやけに足の長いRがいた。そこはジョージのプリントの上で、ぼくは名前の一部だった。使われるはずの無かったぼくが、Gの位置に収まっていた。
おい、ジョージ、聞こえるかい。君は、二十七番目のアルファベットを書いたんだ。ここにいるのはGじゃない。まだ誰のものでもない、未知の文字なんだ。きっとぼくを書けるのは君しかいないんだ。肉を揺らすしか能がないと思っていたけれど、もしかすると君はとんでもない才能を持っているのかもしれない。せっかくだから、君が名付けてくれてもいい。読み方も、ぼくを使った単語も、その意味も用例も決めてくれていい。辞書ではだいぶ後ろになるけれど、誠実な誰かが拾い上げて正しく扱ってくれるだろう。そして、いずれは誰もが当たり前に使うような、できれば挨拶の一部に……いや、それは高望みかな、OMEGAとか、ARROGANCEとか、CENTER OF GRAVITYとか、REGRETみたいな、毎日じゃないにしても使いどころはありそうな単語に身を寄せていたい。
祈るように、今にもこぼれ落ちそうな頬肉を見上げた。
「ミスタージョージ」
ジョージの背後から、ミナーヴァ先生が指揮棒でぼくをつついた。
「そんな字がありますか。きちんとお書きなさい。Gに失礼でしょう」
頬肉から汗がぽたりと落ちて、ぼくに直撃した。焦りの味がした。
「すぐに直します。だから、アルファベットにはしないでください」
ジョージは震える指先で消しゴムをつまみ、力まかせに紙をこすった。往復するたびにプリントには皺が作られ、すぐ横ではEが誤って消され、よれて弱くなったところにいたRに亀裂が入った。正しく扱われた文字達がバラバラになっていく。
ようやく、ぼくに狙いを定めたジョージは慎重に消しゴムをかける。汗の雫で濡れていたぼくはわずかな摩擦にも耐えられずあっさりと破けてしまう。意識が抽き出しの中に引っ張られるのを感じる。やっと手に入れた光と、空虚な闇とが混濁する。
真っ暗な抽き出しに引き戻される直前、ジョージの吐き捨てるような言葉を聞いた。
「こんな字、もう二度と書くものか」
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