0.供物病

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0.供物病

 とある世界。ここでは最近、人間だけが罹患する奇妙な病が流行っていた。  その名は供物(くもつ)病。いつ、どのような理由でそう呼ばれ始めたのか定かでないが、とにかく第一号患者が確認されてから七年後の現在では完全にその病名が定着している。 「ハハ、ハハハ!! いいぞ、もっと、もっと怖がれ! 苦しめ!」 「や、やめ……」 「安心しろ、殺しはしない! まだだ、まだ、こんな人目の無いところで殺したりするものか! こんなんじゃ足りない! 全然足りないんだよっ!!」  雨戸の閉め切られた暗い部屋の中、完全に正気を失った目で妻の上に馬乗りになり、拳で何度も打ち据える男。彼はつい数分前まで愛妻家だった。ごく普通の善良な市民だった。しかし突然"供物病"を発症してしまい、こうなった。  供物病患者は人が変わる。別人格に入れ替わったかのように凶暴化して周囲の者達を攻撃し始める。その際、どういうわけか身体能力も跳ね上がり、普通の人間では手が付けられなくなる。  だから今も、この異変に気付いていながら近隣の者達は手出しをしようとしていなかった。ここは集合住宅の一室なのだが、彼等は自分が巻き込まれないよう、ジッと息をひそめて助けが来るのを待っている。  賢明な判断だ。 「下手に勇気を出されっと、アタシらが困っからなァ」  カツンカツンと音を立て、階段を上がって来る黒い影。手に持った鎖をクルクル回し、止めて、また回す。それは彼女が仕事に取りかかる前のルーティーンなのだ。これからぶっ殺す相手を、どう縊り殺すかを想像しているうちに勝手に手が動いてしまう。 「ああっ……よかった、来て下さったのですね!」  住民の一人がドアの隙間から覗き込み、そして歓喜の声を上げた。彼女はにこりと清楚な笑みを湛えて頷き返す。 「もちろんです。通報ありがとうございました。あなたの勇敢な行いに感謝いたします。危険なので部屋に戻り、以後はわたくしにお任せください」 「は、はい! お気を付けください修道女様(シスター)!」   シスターねえ……と苦笑した。社会に紛れ込むためとはいえ、まさか自分達が神に仕える子羊の真似事をすることになるとは思わなかった。  しかし感謝されるというのは心地良いものだ。ああ、お腹の中から幸せで満たされていく。さっきの主婦だけじゃない、自分の到着に気付いた怯える子羊達の喜びを全身に感じる。あまりの快感で絶頂してしまいそうだ。ぞくぞく身震いして顔を歪ませる彼女──この近くの教会に身を置くシスター・サランサガ。  やがて目標の部屋の前に立った彼女は呼びかけた。 「タラッズさぁん」  甘ったるい、娼婦のような呼び声。しかし形相は肉食獣のそれだ。口角を高く吊り上げ、牙を剥き出しにしてドアノブに手をかける。 「もう大丈夫ですよ。あなたの中の"それ"は、私が駆除しますからね」 「あああああああああああああっ!」  中から絶叫が響いた。おおかた窓から逃げ出そうとしたんだろう。馬鹿め、退路を先に塞いでおくのは狩りの基本だ。きっちり護符を貼って封鎖してある。 (お前はアタシの前に出て来るしかないんだよ!)  案の定、全身から煙を立てつつ男が一人、飛び出して来た。ドアを破壊しかねない突撃だったが、寸前でサランサガがそれを開けていたので、壊れたのはドアではなく男の半身がめり込んだ壁だった。  いや、やはりドアも壊れている。施錠されていたのをサランサガが無理矢理こじ開けたせいだ。硬い金属の鍵とノブが千切れてしまった。  なんだこいつは──驚愕する男。ドア越しに感じた異質な気配。その発生源は若い女だった。褐色の肌、銀髪、琥珀色の瞳を持つ美しい修道女。それが卑しい笑みを浮かべて自分を見つめている。  その両手が動いたと思った瞬間、首が強烈に締め付けられた。 「あガッ!?」 「ハッハァ!」  彼女は男が飛び出して来た瞬間、その首に素早く鎖を巻き付けていたのだ。それを両腕で引っ張り、これまた強引に壁の中から引っこ抜く。 「う、ぎいっ、ぎいッ!?」  男は身をよじった。しかし壁を打ち砕くほどの怪力もこの白銀色の鎖に囚われた途端、掴みどころのない霧となって散っていく。手足の先から勝手に抜け落ちてしまう。 「う、あ……」  残った僅かな力を振り絞って鎖に手をかけたものの、やはりそれはビクともしなかった。いや、そもそも仮に彼の力が万全な状態だったとしても破壊は不可能だっただろう。 「無駄無駄、アタシらよりお前らの方がよぉく知ってんだろ? この鎖は絶対千切れねェってな」 「キサ……マ……"敗北者"……か……」 「バァカ、今時は"笑う聖職者"って言われてんだよ。テメェらの作った戒律のせいで僧侶は絶対笑っちゃいけねえことになってるが、アタシらは別だ。特別にそれが許されてる。そんなことも知らねえってこた、テメェは堕ちたてホヤホヤだな?」 「く、う……」 「赤ん坊みてえなもんか。なら、一思いにサクッと殺ってやんよ」  言葉通り、彼女は首に巻き付けた鎖を左右に素早く引いた。当然、輪になっていた部分が狭まってしまう。  しかし男は死ななかった。鎖が皮膚も肉も骨も傷付けずにすり抜けたから。代わりに彼の中にいたものだけが致命傷を負って絶叫する。 『ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!?』 「うるっせェな。優しく殺してやったんだから、せめて静かに逝け。ったく、ウィンゲイト様にご迷惑おかけすんじゃねえぞ」  耳に手を当て、しかめっ面で男に寄生していたものの最期を見届けるサランサガ。 「おっと」  倒れそうになった彼の体を受け止め、そして玄関が開けっ放しになっている部屋の中へと振り返る。その顔は再びシスターとして穏やかな笑みを湛えていた。 「奥様、もう大丈夫ですよ。旦那様の供物病は完治しました」
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