飛ぶことと見つけたり

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 フィーエルヤッペンを始めてからいくらも経っていないが、俺はなんだか自分が変わってきたような気がした。スポーツを通した成長というヤツだろうか、精神的にも大きくなった。  生徒が教科書を閉じるバタンという音も、いつしか気にならなくなっていた。国が推進する中身のない教育制度や年々厚さも内容も薄っぺらになる教科書、クソ暑い中飽きずにホットミルクを作り続ける自称ウイルス、彼が行う謎のつるんぺたんも、更には先週から始まった甲子園予選である県大会も、大したことじゃないような気がしてきた。教育者としてどうなのかと自問することもあるが、これが青春なのだと自答する。  青春を取り戻した俺は何のしがらみもない無敵の漢で、全てが順調にいっていた。マイキーにすら愛情を向けられるようになった。今朝も家を出るときウインクしたが、それを見た奴は急に便意を催したようにバツの悪そうな顔をして、しゃがみこんでしまった。  その日、俺は校長命令で甲子園予選の応援に行っていた。曇りとはいえ、気温はゆうに三十度を超えている。試合をしている野球部員たちはもちろん、運動部の顧問をしている教師や生徒たち、最近フィーエルヤッペンで体を鍛えている俺などはピンピンしているが、授業中ですらクーラーの中から出てこない小笠原先生のようなひきこもり系の先生はほとんど干からびてしまって、まるでお供え物の干物のようであり、試合が終わる頃には自縛霊になるのではないだろうかと思う生気の無さだった。しょうがないから、そんな自縛霊候補のために、いい人の俺はかき氷を買いに売店に走った。  「おや、押井さんじゃないですか」  振り向くと鵜殿さんがいた。聞けば、鵜殿さんの息子さんは対戦校のピッチャーなのだそうだ。背の高いハンサムな青年だった。球速こそそこそこだが、変化球の多彩さは、大学野球の関係者の間でも少し話題になっているらしい。俺は持っていた二つのかき氷のうち一つを鵜殿さんに渡し、彼の息子さんが投げる姿を眺めた。  「そういえば、鵜殿さんはなぜフィーエルヤッペンを?」  「押井さんと同じですよ。公園でやたらと長い棒を持っている二人組を見つけたので付いて行って、そこで鎌田さんに誘われたんです」  「そりゃ全く同じだ」  「でしょう。その頃は、鎌田さんがプレイヤーで、もう一人の保科さんという方がサポートだったんですが」  ライバルの他に、まだ競技者がいるということか。いや、正確には過去形だ。鵜殿さんは「していた」と言った。  「鵜殿さんはまたどうしてサポートに専念しているんですか。若さより経験が大切なすポートだと思いますし、まだまだ出来るのでは」  鵜殿さん表情が曇り、そして大きなため息を一つ吐いた。  「鎌田さんがサポートに専念するようになったのは、ある事故が原因なんですよ」  リーグ優勝をかけた最終決戦で選手生命をかけて力投し、肘を壊してしまった野球選手。祖国の内紛により活動することを許されなかったサッカー選手。不器用な為に打たせて打つことでしか勝つ道を見出せず網膜剥離になったボクサー。個人の事情、お国の事情。数多くのアスリートたちが意思とは関係ないところで起きてしまった要因のせいで、志半ばに活動を断念してきた。それがスポーツの影の部分だ。だが、平凡なおっさん一人が川を棒で飛び越える上で起こる悲劇など、俺には想像できなかった。  「あの事故の後でも、この競技に関わり続ける鎌田さんは本当に凄いですよ。僕は思いだしただけで辛くなるというのに。あのせいで鎌田さんは肛門科に、いや、これ以上はよしましょう。でも、鎌田さんの名誉の為にも言っておきますが、決して彼一人のせいではないのです」  事のつまりは棒がブスッということか。だが、一体どのような状況で?一体何の力が加わって?それに関して、鵜殿さんはもう何も言わなかったし、男の名誉に関わることなら俺も聞いてはいけない。というよりも、別に聞きたくない。俺はこの話に関してはそのまま放置することにした。  ともかく、その一件を機に鎌田さんのパートナーは引退し、鎌田さん自身は「こんな悲劇が起こるのは僕で最後にしたい」と、サポートに徹するようになったのだそうだ。格好いいのだか悪いのだか分からないエピソードだが、たぶん格好悪いのだろう。いずれにせよ、俺にどうこうできる問題でもなければ、どうこうしたい問題でもない。だってそうだろう。俺にできる事といえば、彼の肛門は大丈夫だろうかと、密かに思いを馳せるくらいのものだし、この暑いなか中年男性の肛門に思いを馳せるような真似はしたくない。  「そういえば押井さん」  いつもの笑顔を取り戻した鵜殿さんが声を発した。  「明日、もう一つのグループと交流会があるんですよ。向こうも、新しい人が入ったみたいで」  ついにこの時がきたか。俺はぶるんと身を震わせた。これが武者震いというやつか。確かに俺はここ最近ずっと練習を積んではいるが、正直なところ競技者レベルに達しているという自覚はない。そんな状況で山下に会うのはどうも気が引けるが、それでも、他にどんな人間がこの競技をやっているのかは見てみたい。  「是非とも」  俺はそう答えた。
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