飛ぶことと見つけたり

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 随分と飲んだ。高校教師同士積もる話もあるだろうと、向こうのチームリーダーの笠木さんが、有難さなど微塵もない気を回して山下と隣同士の席にしてくれたおかげで、俺も、そしておそらくやつも悪い酒ばかり飲んでいた。  結局帰宅したのは丑三つ時だった。一応遅くなることは祐子にメールで伝えてあったものの、彼女の定めた門限十一時を大幅に超えた結果、どうやら彼女は俺の携帯に電話をする前に警察に捜索願を出していたらしく、俺は迫りくる睡魔と闘いながら、玄関に立ったまま警察と祐子の説教を聞いた。  どうやら祐子は俺の浮気を疑っていたらしい。最初に警察に電話したのも、そんな俺にお灸を据えてやろうという思惑だったからだそうだ。祐子一直線の俺が、当の祐子に浮気を疑われるなど心外極まりないが、行き先も目的も告げずに大きなカバンを持って出かける俺に責任があるのだろう。大きなカバンは水に落ちた時の為の着替えだし、行き先と目的を告げなかったのは、まさか公園に行って棒で川を飛び越えています、とは言いにくかったからなのだが、祐子に心配させたのは間違いない。俺は素直な人間なので、素直に詫びた。どこで何をしているかを白状し、密会でなくではなくフィーエルヤッペン仲間と飲んでいたと白状した。  俺以上に素直な祐子は、真相を知ると笑って許してくれたが、一緒にやることは拒否された。理由はあの犬だ。俺が思わず視線をやつに向けると、あのバカ犬は皺だらけの黒い鼻をフンと鳴らしてにやりと笑った。少しは愛情を抱けるようになったと思ったのに。ちくしょう、お前はオランダ国には絶対に連れて行ってやらん。 そんな話をしていると鎌田さんと鵜殿さんは大笑いしながら聞いていた。  「笑い語とじゃないですよ」  俺は一応怒ったふりをしたが、内心俺もそんなことは笑い事だと思った。  「いやいや、微笑ましいですよ。夫婦仲がよろしいのはいいことですよ」  「そういえば鎌田さんは奥さんになって言っているんです、フィーエルヤッペンのこと」  「もちろん。我が家は家内の絶対君主制による統治が行われていますからね。クーデターを起こす者もいないので、報告はすべて上にあげていますよ。でも、家内も結構好きなんですよ。フィーエルヤッペン」  自分の妻が、自分のやっている事に理解を示してくれるというのは本当にいいことだと思う。俺にとって祐子はこれ以上望むべくもない妻だが、フィーエルヤッペンを理解してくれ、その上応援もしてくれたら、ああ、考えただけでにやけてしまいそうだ。  「今は、奥さんは」  「ああ、もう止めました」  遠い目をしたまま言う彼の姿は、どことなく寂しげだった。彼は俺の方を向くと、白い歯を見せ、  「飽きちゃったんですよ」  と、柔らかない悲しさの籠った口調で言った。  競技者としてこんなことを言うのもなんだが、確かに飽きやすいスポーツであるとは思う。フィーエルヤッペンはサッカーや野球のようなメジャースポーツではない。競技人口だってたった七人しかいないから、試合が行われるのも不定期で、「そろそろやる?」「そうだねぇ。やろうかねぇ」という具合に試合の話が進む。  もちろん記録を取るのも適当だ。やり直しだって何度やっても構わない。ようは記録さえ残っていればそれでいいのだから、ちゃんと証拠さえ残っていれば本番すら必要ないのだ。記録を残しやすいよう、試合をしているのだ。やらなければ、という危機感がまったくないため、気を抜けば「飽き」という魔物はすぐに心の隙間に忍び込んでくるのだそうだ。「飽き」に支配されたらあっという間だ。やつらは獲物を狙う狩人のように、常に心の隙間を狙っているのだ。現実には黒い服を着たでかい顔のセールスマンなどいないから、心の隙間はお埋めできない。  だが、俺はまだ元気に続けているし、飽きが忍び寄る気配もない。フィーエルヤッペンを初めてから通い出したジムの成果が出ているのだろう。真っ直ぐに飛べているしバランスも取れている。棒にしがみついた後、少しだけよじ登る余裕も出てきた。やはり俺には才能があるのだろう。  フィーエルヤッペンがメジャー競技なら、もしくは俺がオランダ人なら人気選手になるに違いない。いや、オランダ人じゃ駄目だ。オランダ国にいれば、だ。  俺の急成長は鵜殿さんも鎌田さんも認めてくれていて、ひょっとしたら山下に対抗できるかもしれない、というのは俺のモチベーションだ。  俺は何度も助走台を行き来し、棒を掴むタイミングをはかった。サポートの鎌田さんは、助言はしてくれるが、最後は自分自身の勘と経験が頼りなのだそうだ。鵜殿さんは棒を掴んでからジャンプするが、俺はジャンプの軌道上にある棒を掴むのが好きだ。これは、どちらがいいとかではなく、フィーリングの問題だ。  「そういえば、再来週に記録会を行うんですよ」  鎌田さんが言った。ようは合同練習なのだが、記録会と呼ぶことで気合を入れているのだそうだ。  「押井さんにとっては初めての本番ということになりますね。落ち着いてやれば問題ないですよ。最近の押井さん、すごく伸びていますから」  そう言ってくれるのは有難い。否が応でも気合が入る。しかし、それは何も初めての本番だからというだけではなかった。 山下の前で失敗などできるものか。俺は学校を背負って立っている。その俺が負けてしまうというのは、つまり学校が負けてしまうことと同義なのだ。  たしかに甲子園と比べればはるかに小さい大会だ。いや、大会と呼ぶこともできない。俺が勝とうが負けようが明日という日はくるし、小笠原先生は頭をぺたんぺたんしている。生徒はバタンと教科書を閉じるし、パグ犬は俺を見下し続けるのだろう。例え世界が変わらなくとも、俺は名誉の為に闘わなければならない。  そして、これは個人の問題も含んでいる。もし山下に負けるようなことがあれば、敗北感、焦燥感や劣等感などが波のように押し寄せてくることを、俺は知っている。なによりも、あの憎たらしい顔がゆがむ様を眺めてやりたい。歪んだ快感と呼びたければ呼ぶがいい。  俺は脚に力を込め、助走台を走り出した。ふくらはぎの筋肉が引っ張られているのが分かる。視界の中でどんどん近づいてくる棒は、目の前に鎮座し続けている。ジャンプとほぼ同時に棒を握ると、まるで体が引っ張られるように宙に浮いた。上腕二頭筋に魂を込め、俺は体を持ち上げた。  「いいぞ!」  鎌田さんの声が俺を追いかけてきた。弧を描く軌道が下り坂に差し掛かり、俺は手を離した。地面が近づいて来て俺の脚に衝撃が走る。着地は成功だ。俺はゆっくりと後を振りかえった。八メートルは越えただろう。視界の先には親指を立てる鎌田さんと鵜殿さんがいた。二人の表情が俺の記録の良さを物語っていた。 つづく
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