二重の指輪

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 昔のこと、地方の役所に勤めるトモオという名の若い役人がいた。  彼は身分は低いが信用が厚い青年だった。  あるときトモオは首都のかなり偉い役どころの相手へ、自分の上役からの手紙を持って行き、その返事を聞いてくるようにと言う仕事の命令を受けた。  そこで彼は、この首都への旅は日数が掛かるものと算段して上役に、大事な役目と思うので供の者を一人連れて行きたいと申し出て了承され、自分の同僚のタケカズという青年の役人に同行を頼んだ。そして数日後、二人は首都への旅に出た。  トモオとタケカズは役所の中でも外でも友人として気心の知れた間柄だった。トモオは役人ということで剣を腰に帯びていたが、もっぱら書類仕事が得意で剣の腕には自信が無かった。それに比べるとタケカズはトモオに比べてガッシリとした体で剣の腕も数段上で、将来は役人を退いて剣技を人に教えて暮らしたいとさえ思っていた。そんな事情で二人は互いをよく認め合っていたので仲がよかった。  夏の暑さの中、二人は馬で先を急いでいた。山の中の人里離れた道を進むのは用心が必要だった。どこに山賊などが潜んでいるか分からない。大げさに山賊などと言わないまでも、腕に覚えのある不心得な剣士ならば一人ででも追い剥ぎくらいはやってのけるだろう。山の中に離れて暮らす者の素性というのは元盗賊やら人殺しやらで山に逃げ込み、ほとぼりが冷めるのを待っているという者もいる。とにかく油断が成らない。  山道に入って二日目の夜にさしかかるとき、予期せぬ風雨に見舞われて進めなくなり難渋した。 「これはっ。ううん」トモオが呻くと、 「おまえ、疲れたであろう。この嵐の中で進むのはワシでも骨が折れる。どこか休めるところがないものか、これでは馬も持たぬ」  二人は被った笠の縁を手で握りしめて押さえながら前を見据えて歩いていた。このまま、嵐の中で山道を行くのは、盗賊こそ出ないかも知れないが危険なことに変わりは無い。 「おい。あれを見ぃ」  タケカズが指をさした。彼の指の先には暗がりの中に大きな柳の木が生え、その根元に寄り添うように小さな家が建っているのが見えた。  その家は、どうも昼間は旅人に茶などを出している店のようだが、この日はもう固く戸を閉じていた。 「どなたか。どなたか」  トモオは嵐に備えてガッシリと板戸を閉じているその板を拳で叩きながら顔を押しつけ喉を絞って中に誰かいないのかと声を掛けた。  トモオのあとにタケカズも加わり、戸を叩いて声を掛けた。  すると中の方でガタガタと音がし他のが聞こえた.これは誰かが我らの声に応えてくれていると思って板戸を見ていると、戸が開いた。そこに顔を見せたのは一人の老婆であった。  トモオは「わけは中で、まずは中へ」と老婆に頼み、トモオとタケカズは馬と供に小屋の土間へ通った。そして、老婆がまた吹き込み雨風に板戸を締めるのを手伝い、やっと静かになって落ち付いた。 「手間を取らせた。火急のことゆえ許せ」トモオは土間に尻餅をつきながら老婆に言った。 「いえ、お役人様。大変でしたでしょう」 「あ、いや、もう大丈夫」  トモオもタケカズも二人とも口を揃えた。  家の中は、客を入れる土間が少しあったが、奥の台所は小さい。その奥には二間は一応あるが、それもまあ取って付けたような部屋だった。男はおらず、老婆一人と、どうももう一人奥の部屋にもいるようだった。 「濡れた体では風邪をひきます。火のそばでどうぞ。何もありませんが、食べ物も用意いたしましょう」  老婆の申し出には感謝した。二人は、土間で寝ろと言われても甘んじて受けただろう。 「本当はきょう中にこの山を越えるはずだった。計算違いだ」 「この山は見た目よりずっと上り下りがキツうございますからなぁ」  老婆がそう言いながら囲炉裏の火を大きくした。トモオとタケカズは、脱げる服は脱いで火に干し裸同然になった。夏の日というのに山の上は寒かった。  二人がこれ以上は近づきようも無いというほどに焚かれた火に近づいて手をかざしているところへ、奥の戸を開けて美しい娘が料理の載った膳を持って入ってきた。トモオはこれにはぐっと胸を掴まれて見入ってしまった。髪も束ねただけ、着物は一応洗濯はしたばかりという感じの粗末な布のものである。だからおそらく化粧もしていないのだろうが、これが化粧など必要も無い透き通るような肌つやをしていて、目鼻立ちも鮮やかで、おなご同士なら「どちらの化粧をお使いか?」などと聞きたく成るであろうところだ。 「こんな山奥に、こんな……」  そう言ったのはタケカズの方だった。彼はその無目を見るなり、呆れて笑い出したくらいだった。  老婆が言った。 「この娘はワカエと申します。こんな山奥で育ちましたので殿方のことをよく存じません、あまりおからかいになる様なことはなさらんでください」 「ああ、いや、我らは役人、無体なことなどはせん。安心なされよ」  それで老婆とその娘のワカエは安心したようだった。トモオとタケカズも濡れた体を温め、供されたこの家の料理と僅かな酒を飲んた。トモオはあまりふざけて人を笑わせたりする方ではなかったがタケカズは、恐らく剣の修行で会う人々と会うとこうなるのであろう、トモオが知らないような妙な芸をその場の三人にやって見せ、笑わせた。老婆は驚いていて笑っているとは言えなかったかも知れないし、ワカエも大笑いはせず、口元を押さえてクスクスとけれど肩を震わせていた。トモオ一人が、大げさに声を上げて笑った。  そうしていつの間にかトモオとタケカズは眠り、後片付けがいつの間にか行われ、そして朝が来た。  朝は、嵐のあとらしく晴れ上がった。 「遅れを取り戻さねばならん」トモオが呟いた。そして、タケカズに、 「おまえ、わたしが戻ってくるまでここにいてくれないか」そう言った。  もちろんタケカズは、それはなぜかと尋ねた。それにはこう答えた。 「わたしは今朝心に決めたことがある。それを思うとなにかとても気がかりで不安なのだ。それで、その不安を打ち消すためにおまえにここに残って欲しいのだ。分かってくれるか」  タケカズは「ははぁん」という顔をしてちらりとワカエの方を見たあと、 「いいだろう。おまえの留守は、この俺が守る」  トモオはタケカズの承諾を得ると、老婆とワカエにあいさつをし、タケカズを置いていくこと、その間はタケカズに何でも仕事を言い付けていいといい、そして、自分が戻ったら「話したいことがある」と言い置くと馬にまたがり駆け出した。  トモオは駆けに駆けて日程の遅れを取り戻し首都の役人に手紙を渡し、さらにその返事を書面にして丁寧にしまうと、首都見物もなく早々に来た道をとって返した。  トモオがまだ帰ってこないその夜のこと。もう茶屋の店じまいをして戸板をしっかり閉めたが、何かが家に近づいてくる気配を察したタケカズが老婆に聞いた。 「この山には質の悪いヒヒが住んでいると聞くが」 「はい、そうで」 「それはいつも、どうやって避けているのです。戸締まりだけ厳重にしておれば平気ですか」 「大体はそれで充分ですが、たまには板を破られることもございます。三年前にはそれで爺さまがヒヒに噛まれて命を落としまして」 「なるほど、そうでしたか……であれば用心せねば」  タケカズはその夜、酒も飲まなかったしまんじりともせず、剣を自分の前に置きあぐらを掻いたまま、ずっと目をつぶって過ごした。老婆とワカエには、奥の部屋に入って押し入れの中で身を潜めておくようにと言って置いた。  夜中過ぎ、外の道の砂利やら砂やらをこする音がしてこの家の周りに相当数の何かが蠢く気配を感じてタケカズは身支度を調えて身軽になり、袖を絞り、剣を抜いて構えた。  入り口の戸板をドンドンと、これは人が叩くようなものとは違う、両腕で力任せに太鼓でも叩くように叩く音がした。 「娘をよこせ。よこせば喰わぬ。逃してやる」  それは、人の声に似てはいたが、どこから声を出せばそうなるのかと思うような不思議な響きと得体の知れない不気味な震えの載った声だった。  その声は人間ではなく、普通の猿というようなものでは無いと直感したし、その上で、 「交渉しようなどと言うことも無いな」  タケカズは忍び足にヒヒの叩く戸板に近づいた。そして、つぎにまたドンドンドンと戸板が鳴ったとき、タケカズは戸板の向こうのヒヒに一撃の剣を突き出した。板の向こうで、ゴボッっ濁った声がして、タケカズが剣を引き抜くとドサリと大きなものが倒れた音がした。とたんに家の前で怒声のようなヒヒの咆哮が響き、それが家の周りまで伝わって、そこら中から湧き上がった。そして今度はドンドンとそこら中の家の羽目板が叩かれて、今度は威嚇のために叩かれているのではなく、打ち破るために叩かれ出したのだと分かる強さで叩かれ出した。  だが、そのヒヒどもの行動をタケカズは、ニヤリと笑って、板を破ろうとする音の所へ立ち回っては剣で一突き、また一突きと、アッという間に数体のヒヒを葬った。 「威勢ばかりで、智慧の無いことよ」  剣の修行を積んできていてるタケカズには、今のところこの戦いにそれなりの勝算があった。 「武器を持った集団に追い立てられたならまだしも」  タケカズは、さて次はヒヒどもがどうしてくるかと待ち受けた。  奥の部屋の押し入れの中では、老婆とワカエが頭から布団を被り、泣き叫びたいところを声を押し殺して目をつぶり堪えていた。  やがて家の外では、結集したヒヒどもが戸板に体当たりして破ってきた。タケカズはそれと見ると、用意しておいた松明を束にして、家に飛び込んできたヒヒとすれ違いに外に飛び出すと松明を当たりにばらまいて明かりを採り、飛びかかって見えたヒヒを手当たり次第、切って捨てた。  五体十体とヒヒを斬り捨てた。だが、ヒヒにも武器はある。鋭い歯と爪。噛みつかれれば肉は咬み千切られてしまう。爪に裂かれれば深手は免れない。  タケカズとヒヒの死闘は夜明けまで続いた。  夜が白々と明けるころ、茶屋の前にトモオが馬で駆けつけた。  家の周りに鬼の形相で牙と爪を尖らせて白毛を赤く血に染めたおびただしい数のヒヒの死骸が転がっていた。タケカズが茶屋の横にある柳にもたれかかっていた。その前に老婆とワカエが立っていた。  老婆とワカエはトモオの方へ振り返った。二人の顔は涙に濡れていた。トモオもその顔を見て、すぐに分かった。 「すまんことを頼んだな……タケカズ」  タケカズの顔は安らかとは言えなかった。奮戦まだ足らずといった面持ちで、剣はしっかりと握られていた。トモオは彼の剣を手から外してやった。彼の持ち物の中には一通の手紙が入っていた。その手紙にはトモオへ、これまでの感謝の念と、それからトモオ自身へのタケカズの心の丈がしたためられていた。それはまさに愛のことばだった。 「そんなことが……まるで気づかなかったぞ。タケカズ」  茶屋は激戦のあとでボロボロになり、もう使い物にならなかった。老婆とワカエは、それでもここでよいと言ったが、トモオはそれでは気が済まぬと言った。そもそも、首都で用を済ませたあと、ここに戻ってきて話したいことがあると言うのは、ワカエを妻に欲しいという申し出を、老婆とワカエにするつもりであったからだと伝えた。 「やはり、そうでしたか」  老婆がそう言うと、ワカエはそっとうつむいて頬を赤らめた。 「わたしについて来てはもらえませんか」  トモオが説得すると、老婆は自分達がこの茶屋の脇に生える柳の木の精霊であることを告げた。 「わたしたちは、この木の生きる限りの命です。ですが切り倒されれば終わる。だから、切ってしまいそうな人がいれば、切ってくれるなとお願いするのです。だからこの木のそばで生きていかねばならないのです」  それを聞いてトモオは、出会った日から心にあった謎が分かったような気がした。山に入る時、土地の者がなんらこの茶屋の話をしなかったこと。男手のない老婆と娘で店をやっていることなど、疑問は考えればいくらもあったからだ。 「ならば、よい案があります」  そう言ってその案を話し、二人に納得させると、二人を連れて故郷の国へ二人を連れて帰った。  それからのち、トモオは役所の命令をすべて済ませると、タケカズの死んだ場所へとって返し、彼を弔うための小さな祠を柳の木のそばに設けて、柳の木と纏めて精霊宿るところとして土地の人間に大事にするよう言い含め、供養の金を置いてきた。  月日がたち、世の中の状況が変わっていく中、トモオの妻となったワカエが夫婦の指輪が欲しいというので、トモオは指輪を作ってやった。 「ひとつはわたしの、ひとつはおまえのだ」 「ありがとう、あなた」 「それから、わたしは今の指輪の上にもうひとつ」 「もうひとつ?なぜです?」 「これは、タケカズのじゃよ」 「まあ」 「ひとつはタケカズに渡さねばならない。おまえも一緒に来てくれ」  トモオをワカエの二人が出会った茶屋の跡は柳の木が大きく実り、かつて若木だったワカエの木もたいそう立派になっていた。そして、木のそばに立てたタケカズの祠は、柳の木の間に包み込まれてひとつの形になっていた。  トモオはワカエに指輪をはめた手を見せながら、 「おまえとの指輪を上からしっかりと押さえてくれるのが、このタケカズの指輪じゃ」  ワカエは、こくりと頷いた。  トモオは自分が指にしたのと対になる、もうひとつの指輪をタケカズの祠に置くと、ワカエと並んで手を合わせた。
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