その1

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その1

どうして私は学校に来ているのだろうか。  目の前に私の机がある。しかし、その机には花瓶に刺さった枯れた花、その下の机には大量の罵詈雑言、死を願う悪口の数々が所狭しと書かれている。  それは日常化した、忌むべき光景だ。  今、思い起こせば何が原因だったかは全く思い出せない。しかし、その覚えていない原因は間違いなく自分にあるらしい。ならば、過去に自分はどれほどの悪行をし、罪を作ったのだろうか。  周囲を見渡せば完全に無視されている。いや、完全に無視されたわけではない。その光景を遠巻きに見つめ、ニヤニヤと笑っている女子グループだけ。  最初は何度も涙していた日常、光景。しかし、それも今やすっかり慣れきってしまっていた。いつも通りに花瓶を片付けに、教室から出て行こうとして――  不意に足を引っ掛けられた。  盛大に転び、手にした花瓶は水を吐き出し床を染め上げる。  どんくさい私はそれを見つめるしかなかった。  誰が足を引っ掛けたなんて、今やどうでもよかった。それほどまでに心はこの苦痛に慣れてしまった。最初は泣いていたのに、今や涙すらも流れなくなってしまっていた。  くすくすと誰のものともいえない笑い声が響く。  どうして私は学校に来ているのだろうか。  引きこもると言う手段もある。でも、何故だろう、それをしたら負けると思ったからだ。何にだろうか。それは現実だった。こんな現実に負けてたまるか。こんな事でへこたれてたまるものか。  こう思うということは案外、自分は負けず嫌いなのかもしれない。  なら、その負けず嫌いの気持ちを奮い立たせようじゃないか。  絶対に、負けてたまるか。絶対に…… *  母が死んだ。  享年四十歳。病名は子宮がんだった。  危篤だという知らせを受け、病院に駆けつけたとき、すでに母はこの世の人ではなくなっていた。  いつもの母の姿を拝むことはできなかったし、母の死に目にも間に合わなかった。その点だけが自分を後悔させていた。後悔させていたということは、俺は心のどこかで母の死を受け入れていたということに他ならなかった。  病室に入ると、そこには静寂が広がっていた。ただただ、白い布が顔を覆った亡き母の姿と、それを俯き、見つめている担当医と看護師の姿がそこにはあった。  「…お悔やみ申し上げます。」  担当医の静寂を破ったその言葉など、今の自分にとってはただの慰めにしかならない。いや、その慰めすらも今の自分を救うには至らなかった。  ただただ、呆然として、父と共にその光景を見つめるしかなかった。  「…」  恐る恐る、少しずつ湧き出る勇気が自分の足を進めていった。一歩一歩足を進めるたびに、受け入れたくない現実に近づいていく。その後を父が続いていった。  やがて、母と言う現実に辿り着く。当たり前だが、母は何も語らず、黙したままだった。  「…」  自然と涙がこぼれた。それは親子ならば当然の、情から来るものだった。  父の目にも涙がこぼれていた。親子二人は愛しい家族を失ったもの故の愛情と悲嘆を流し続けていた。  次々と母との思い出が目に浮かんでは消えていった。  自分を抱きしめた母、一緒に歩いた道、一緒に遊び、一緒に入学式と卒園式で写真を撮った日々…  どれもこれも今となっては自分の中の愛おしい思い出だった。  母さん…  その思い出をもう一度確かめたくて、母の顔を覆う布をめくろうとした直後だった。  「あはははははは!!」  自分のすぐ近くからハッキリとした嗤い声が響いた。  その場違いな嗤いに、俺は声の主へと振り向いた。  声の主はすぐに見つかった。  医者と看護師のすぐ近くに少女がいた。  くすみ、汚れたブレザー。長い髪。どこからどう見ても自分と大して変わらない、同年代の少女だった。しかし、圧倒的な違和感がそこにはあった。  少女の体は半透明で、何よりは人間ならば当然備えているはずのそれが無かった。そう、足、が。  「あはははははは!!!!」  俺はその少女を見つめてまま固まった。  普通なら、こんな不謹慎な笑い声を上げるこの少女に怒りを覚えるものだ。しかし、その圧倒的な違和感がそれを許さなかった。  何だ、この女……  人目でわかった。こいつはヤバイ、この世のものではない。  人間として当然湧き上がる感情を、先程まで自分を染めていた感情を打ち消すレベルの、恐ろしい存在だと、一瞬で理解した。  「明…?」  俺を呼ぶ父の声が響く。  しかし、俺はその少女に見入ったまま固まったままだった。  「あーっはははははは……」  少女の狂笑がふいに止んだ。そう、それに気づいたからだ。  少女が俺を見つめていた。向こうも初めて自分と言う存在に気づいたようだった。  気づかれてしまった。蛇に睨まれた蛙の如く、俺はそれを見つめるしかなかった。  短い沈黙。しかし、長い沈黙がそこに流れていた。  「あら」  少女が嗤う。その顔は両目を限界まで見開き、耳まで裂けそうなほどの、生きとし生けるもの全てを怖がらせる程の、凄惨なものだった。    「あんた、私が"見える”のね?」  少女が呟くと同時に、母の顔を覆っていた白い布がはらりと落ちた。  母の顔は恐怖と苦悶に満ちた、おぞましい表情だった。  この日を境に、俺の地獄が幕を開けた。
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