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その6
私の意識は教室に戻っていた。どうして戻っていたのかわからなかった。いや、わかっているはずだ。これは"期待”だった。
自分の逃避を持って周囲に発したこのメッセージが誰かに、松田さんに届くと思ったからだ。
私が経験したあまりの理不尽さ。あまりの苦痛、絶望感。これを彼女に叩きつけたかった。
どう、痛いでしょ?苦しいでしょ?理不尽でしょ?
だから、どうか、どうか――
しかし、その"期待”すらも神は許してくれなかった。
教室の扉ががらりと勢いよく開いた。そして……
*
俺はこの教室を知っている。俺はこの席の主を知っている。自分が今まで体験してきたこの身体。一体、この身体に何が起こったのかも、どんな気持ちだったのかも。一体、どれほどの絶望を体験する羽目になったのかも。
そして、何よりは――
唐突に、その教室のドアががらりと開いた。そして、その人物は入ってくる。
その人物は身体の主たる机の前まで早歩きで近づいた。
まだ生々しく落書きの後が残る机の上に、今度は本物の花瓶と本物の花が添えられていた。
その人物はその机を見下ろし――そして――
「っ!!!!」
思い切り机を蹴り飛ばした。
花瓶が倒れ、水が吐き出され、ごろごろと転がった花瓶が落ち、割れた。
その人物は何度も、何度も花をを踏みにじり始めた。
それに続くように、かつての取り巻きの女子生徒二名が教室に入ってくる。
「このっ!この!!」
俺はこの花を踏みにじる人物を知っている。
この人物――俺の母親、学生時代の松田恵美を。
「ちょっと、やめなよ、恵美ちゃん」
「そうだよ、いくらなんでもやりすぎ――」
「こいつが!こいつが!!この馬鹿がこんな場所で首を切りやがって!!」
母の顔は言葉では言い表せないほどの憎悪に染まっていた。
「こいつのせいで!こいつのせいで!!」
母は何度も花を踏みにじる。
「わたしの人生は滅茶苦茶よ!!」
母は何度も何度も踏みにじる。
「ご丁寧に遺書に名前まで書きやがって!!内申点稼ぐためにどれだけ良い子ちゃん演じてきたと思ってんだ!!ああ!??」
母は終いには身体の主の机を思い切り蹴り飛ばした。
「こいつのせいで!こいつのせいで!!」
まさに悪鬼羅刹の言葉が似合うほどの表情で暴れまわった。そして、どれほど暴れたか、やがて肩で息をし始めて、ぎろりと目の前の同級生に矛先を向けた。
「楓のせいだからね」
「え…」
「楓があの馬鹿をからかってやろうって言ったからこんな事になったんだ!!」
「そんな!!」
「美幸も!楓の口車に乗せられやがって!!」
「ひどいよ恵美ちゃん!!」
「そうだよ、一番乗り気だったのは恵美じゃない!!」
「黙れ、黙れ、黙れぇぇぇ!!」
母が叫ぶ。
「私は悪くない!悪くない!!全部、二人のせいだ!この馬鹿のせいだ!!悪くない!!」
母が鬼のような顔で責任転嫁し始めた。そして暴れまわる。暴れまわった。
あまりの豹変振りに俺は言葉を失った。
時折、母は怯えたような表情をしたり、唐突に暴れ、泣き叫んだりした。どうして、そんな事をしたのか、今ならわかる。今なら、今なら――
なんで…
あまりのショックに思考が追いつかない。
何でだよ、母さん…
見たくなかった。こんな母の姿。知りたくなかった、こんな過去。
自分の中の母の思い出が音を立てて崩れていく。優しかった母の姿が跡形も無く。あんなに醜く、怒りと憎悪に染まったあんな顔。あんな、あんな――
「――殺してやる」
その言葉に俺は声のするほうを見やった。
そこにはあの"女”が立っていた。そうして理解する。何もかもをあの夢の体験を、あの染め上げる絶望を、あの苦痛を、憎悪を。
"女”は血の涙を流しながら母の暴挙を見続けていた。唯一の期待は裏切られた。少しは反省してくれるものだと、少しは自分を理解し、後悔してくれるものだと、そんな一縷の望みさえ叶わなかった。もう、残るのは圧倒的なまでの殺意だけ。圧倒的なまでの恨み、否、怨みだけ…
「殺してやる、殺してやる、殺してやる殺してやる殺してやる!!」
怨言はとまらなかった。殺意がとまらなかった。
「どんなに時間がかかっても必ず殺す、殺してやる!!」
そして、俺に振り向く。
両目を限界まで見開き、歯を食いしばり、血の涙を流し、そして、狂気と憎悪と怒りに満ちた、恐らくはこの世で最も恐ろしい表情だった。
やめろ、やめろ…
自然と涙がこぼれた。
やめてくれ…
背筋が凍りつく。怖気と言う怖気が体を走らせる。
いやいやと首を振る。しかし、"女”はそれを許さなかった。
そして――
「あの女は勿論、息子のお前も祟り殺してやる!!!!」
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