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「じゃあねー」
糸杉は職員室の前で手を振ると、タッタッと廊下の向こうへ走っていった。休日ゆえに咎める者も少ない。小さくなる後ろ姿は子犬みたいだった。
角を曲がるまで見送ると、僕は口の端が持ち上がっていたのを直す。
自然とにやけてしまっていた顔を、冷静な表情で隠す。春山先生に見られでもしたら、「糸杉さんとなにかあった?」なんて訊かれそうだ。根掘り葉掘り突っ込むクラスメイトよりはマシだろうが、あまり詮索されたくはない。
コホン、と咳払いをして、ノック。
休日なので返事を待たずに入室する。それを咎める者もやはりここにはおらず、代わりに、一週間まえと同じように手を挙げる教員がいた。
不在なデスクの間を縫って近づくと、出勤した数名のうちのひとりである春山先生は、お手本のように微笑んだ。
「おはよう。持ってきてくれたのね」
「はい。この場で目を通しますか?」
「ええ。信用してないわけではないけど、一応ね。あ、鞄はそこに置いていいよ」
春山先生はとなりのデスク――香ヶ峰先生の机を指差した。座るよう促されたのもその先生のイス。くるくる回る上に肘掛けが備え付けられていた。
僕は原稿用紙数枚を手渡すと、その席に座って確認を待った。座り心地も相まってか、妙に落ち着かなかった。
気を紛らわす思いで、周囲に目を向ける。
職員室はもの静かな雰囲気だった。
普段の教室と比べて職員室は大人のスペース。騒がしさとは縁遠いことは知っている。だが今日は一段と静かだ。
遠くの喧噪は届かないし、聞こえるのは数名の教員が作業する音のみ。廊下の冷たい温度との差もあって、いつも以上に異空間。
ふと前に視線を戻せば、そこには足を組んで目を細める、白衣の担任。加えて、僕と糸杉の文字が刻まれた原稿用紙。
それがさらに、落ちつかない空気に拍車をかけた。
「……」
「……」
一枚目を読み終えたのか、紙の擦れる音がした。
先生が足を組み直し、体勢を変えた。
秒針の音が大きくなった気がした。
糸杉は、今ごろなにをしているのだろう。そも、なんの用事だったのだろう。
僕はいつしか、窓の外の庭を眺めてそんなことを考えはじめていた。意識を職員室の外、庭の向こうに並ぶ桜に移して、ぼんやりと思考する。
また一枚、紙の擦れる音がした。
これが終わったら、どこに行こう。
ハーベスト……は行き慣れているけれど、ちょっと面白みがない。いつもはいかないところで打ち上げをしたいものだ。
コレが先生のお眼鏡に叶えば、だけど。
また一枚、紙の擦れる音がした。
カラオケもまぁそれなりの選択ではあるけど。今は食べ物をがっつりと食べたい気分だ。ぱーっと。思い切って焼き肉なんかもいいかもしれない。
また一枚、紙の擦れる音がした。
糸杉は、どこに行きたいのだろうか。
考えておいて、と言ってあるが、さっそく意見を聞きたい自分がいる。さすがに先生の前で携帯を弄る気にはなれないし、職員室を出たら真っ先に確認しよう。
どれだけ経っただろうか。おもむろに、目の前の足組みが解かれる。
そして考え事を繰り返す僕に、チェックを終えた春山先生が口を開いた。
「良い内容だと思う。よくできてるし、学生の言葉としては申し分ないわね」
空気が弛緩した。
「ほんとですか」
「ええ。ちょっと長いけど、特に直すところもないし、大丈夫」
僕がホッと安堵すると、春山先生は優しい表情を浮かべた。
どうやら無事終わりそうだ。これで午後は予定どおり事を進められる。
「お疲れさま。今日はもう帰って問題ないわ。春休みも適度に満喫してちょうだい」
「ありがとうございます」
はやる気持ちを抑えながら、席を立つ。
念のため忘れ物がないか確認もして、鞄の口を閉じる。時計の針を見ると、糸杉と別れてから二十分ほどが経過していた。もしかしたらもう校門にいるかもしれない。
「それにしても、すごいわね」
僕が帰り支度をしていると、春山先生が関心したように声をかけた。
「……? なにがですか?」
「まさかこんなにしっかりと仕上げてくるなんて。担任として、誇らしいわ」
こんどは腕を組んで、ウンウンと頷く春山先生。
そこまで褒めるようなことだろうか? イヤな気分ではないが、そんな反応をされるとちょっと恥ずかしいのでやめてもらいたい。そもそも、この文章は僕だけの成果ではないのだ。
糸杉の存在があったからこその――
「一人に押しつけるカタチになっちゃって、内心ちょっと心配だったのよ」
こそ、の……。
「……」
「……」
……。
…………。
「……あっ」
長い沈黙を経て、春山先生の表情が強張った。手が口元を隠した。
まずいことを言ってしまったんだ、と、僕でも感じられた。
僕の世界に、ひびが、はいる。
こわれていく。
「い、今のは、その、違くて」
そのときだった。
静かなソレは、唐突に響いた。
――、――……、――……。
水面に水滴が落ちたように、そして波紋がゆっくりと広がるように、音が聴こえた。
最初は軽く。
でも、連続する一音一音が、知っている曲とは別の方向へと舵を取る。
「瀬、川くん……?」
あの日と、曲調が違う。
全身に電流が走ったように、僕は振り返った。
記憶に刻まれたあの曲は、未来に対する光を透かすように奏でたメロディーだったのに。木漏れ日に手のひらをかざすような旋律だったのに。
今流れるコレはまるっきり……逆の……。
硬直した手から、鞄がすべり落ちた。
「瀬川くん? 瀬川くん、大丈夫?」
ガサリと床に叩きつけられる音も、先生が心配する声も、僕には届かない。
遠くから聴こえる音に全身を貫かれて、気にならない。
そう。
ずっと遠くから、
廊下を反響して、
微かに、でも、確かに。
「っ!」
「瀬川くん!? まさか――ダメっ!」
僕は反射的に走り出した。
ガラッと乱暴に戸を開け放ち、止める声も振り切って駆けた。
以前と異なる曲調でも、感覚でわかる。同一人物であると。
この丁寧な弾き方。心に直接響かせる透明感あふれた弾き方。ピアノが同じというだけじゃ説明できない確信が、強く僕の背中を押す。
きっと、どこかで分かっていたんだ。ただ目をそらし、見ないようにしていただけ。
顔の見えない演奏者。
そいつから放たれる空気の振動が、数日まえとは別の色を形づくっている。危機感にも似た焦燥が僕を満たし、走らずにはいられない。
……、――、――……。
今ふたたび胸を打つ旋律。
それは神秘的、かつ、ありふれたイメージを彷彿とさせる。
誰もが心に飼っている、恐怖という化け物を表わしている。
込められた憂いの感情。
混ざる悲哀。
暗い水面を透過するかのような感覚に、鳥肌が立つ。息切れの合間に喉を鳴らして、僕は走った。
階段のまえを抜け、棟を分かつ連絡扉をくぐる。休日にもかかわらず開けっぱなしのソレを抜ければ、音はさらに鮮明に世界を彩る。
視界の横、流れる景色に入り込む淡い色はそのままに、世界が存在感を増したような気がする。僅かな光を混ぜて、行く先を照らす。
角を曲がり、彼方に目を向ければ、それをさらに強く意識した。
――……、――。
――、――、――。
音は心に直接、さらに深く、訴えかけてくる。
複雑に絡み合い複雑に混ざり合い、できあがったどうしようもない世界観。
憂鬱も、後悔も、暗い面をどこまでも透明に描いている。
だが、それだけじゃない。
ただ暗いだけでは決してない。
「はぁ、はぁ……っ、」
一度止まり、息を整える。
廊下の向こう。
見慣れたはずの、空き教室の戸が、開け放たれていた。
間に合え。
そう願い、僕は最後の直線を走った。
濃くなる存在感に、酷使する足が震えた。
音から見え隠れする感情に僕は気づいた。気づいてしまった。
この、曲は、
「……ッ!!!!」
声にならない声で、名前を呼んだ。
開け放たれた戸の向こうに飛び込んだ。
踏み入れた空き教室。
小窓というフィルターを通してしか見ていなかった世界に、僕は目を見開いた。
木目の床。
教室のど真ん中に置かれたピアノ。
持ち上げられた屋根に、白と黒を覗かせる鍵盤。
埃と息苦しい空気に満たされていたはずの空き教室は、窓がすべて解放され、庭に並ぶ桜の花弁が舞い込んでいた。
――、――、
――、――、――……。
窓際の床に薄く積もった桃色が、微風にすべる。
斜めに差し込む光が、部屋に日なたと日かげの対比を生む。
演奏者はいない。
なのに、音は確かにそこに残っていた。
初めて聴いたものとも違う。先日聴いていたものとも違う。
にもかかわらず、彼女のものと理解できる不思議な音で満たされている。
呆然と、その光景を見つめた。
指をピクリとでも動かしてしまえば、不思議に惹かれるこの音が、途切れてしまう気がした。
「……、」
人生とは、憂鬱で、息苦しくて、どうしようもなく真っ暗だ。
後ろを振り返れば、すべてを失った色のない現実が口を開ける。
いつだって、僕の底なしの世界は、水面が覆っていた。
冷えた感情が、ぽっかりと空いた胸の奥を満たしていた。
――、――。
――、――……。
そんな僕の世界に、波紋が広がる気分だった。
桃色の花弁が浮くように、暗いだけの水面に色が落とされた。
先の見えない、暗い目で見つめるだけの未来に、淡い光を見いだした。
音が、小さくなっていく。
僕の内面に弱く、されど確かなものを残して去って行く。暗いものを取り除いて消えていく。
役目を終えたように、ゆっくりと、遠ざかっていく。
追いかけることはできない。
きっと、最初で最後。
いつしか、教室には。
舞い落ちる花弁と、沈黙するピアノと、静寂に包まれた空気。
そして、袖で目元を拭う僕だけ。
演奏者のイスに供えられたお汁粉の缶には、ひとひらの花びらが乗っていた。
――fin.
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