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がこんと大きな音を立てて扉を開ける。開けるというより板を外すに近い作業だが、唯一ある出入口のための大切な「扉」である。しっかりと開いてから、俺はその部屋へ入った。
室内はきれいに片付いていた。また、あのお節介なぼくちゃんが掃除しに来てくれたんだろう。
部屋の真ん中には大きな円形の机がひとつ。俺は、そこに下の階の店主から渡された布をばさりと広げた。
いつも使う大きさがぴたりとはまる白い布。それは専用のテーブルクロスなんかじゃなくて、いつだったかよく気づく、あたしが見つけてきたのと言う少女が敷き始めた物だった。
今はお菓子屋の店主を勤める彼の店は、今日も客で賑わっている。今さっき自分が通ってきた扉の向こうにある階段の先から、甘い匂いと一緒に慌ただしい声がいくつも運ばれてくる。
俺はひとつ息を吸い込んで気合いを入れた。
「よっしゃ」
どかどかと足音を立てながら締め切っていた窓を開いていく。
ひとつ、ふたつ。
前に来たときよりも筋肉が付いたかな。二人に自慢してやろう。
みっつ、よっつ。
体力もついたな。体力だけが取り柄だって、また笑われるかな。
いつつ。これで、最後。
五つの窓を全開にして、外の風を中に通す。大して入らなかった。
「あっついな」
頬を汗が流れていく。
先週よりも更に暑くなった気がする。というか、毎日暑くなっている。去年よりも確
実に猛暑日が続いている。
なぜかと聞かれたら、そういう気分だからだろとしか答えられない。暑くなりたいんだろ。どっかの誰かが。
それにしても暑い。
「スノウサイダーでも買ってこようかな」
こんな暑さだから、一瞬で溶けてしまうかな。
そんなことを考えながら、俺は上着を脱いでシャツ一枚になる。汗に浸されたシャツはできればすぐにでも洗濯したい。でもどうせ、別の服に着替えたところで数分後には同じ状態になるだろうけど。
「あー、暑い暑い」
暑いとこうまで言葉が奪われるのか。
木で作られた折り畳み式のイスは、同じ材料でできている壁にしっとりと溶け込んでいた。四脚しかないそれの、一番手前にあった物を開いて床に立たせた。
待ち人たちはまだ来ないだろう。そう思い、テーブルではなく窓の側にイスを移動させた。そして、その上に腰を下ろした。
窓の額に背を預け、外を見る。
裏口は森のすぐ近く。ちゃんと戸締まりをしないと、たまにとんでもないものが一階の店にやって来る。店主はそう言っていた。
表の入り口からやって来るものは、一応はおとなしい客らしい。一応は。
「どんなのが来るんだ?」
「そうだな。面白いことが好きなどっかの吸血鬼お嬢様とか」
吸血鬼お嬢様?
「材料が足りなくなって、慌てて買いに来るパン屋の魔女とか」
パン屋の魔女?
「あと、お前たちみたいなクソガキ」
クソガキで悪かったな。
「そいつらは意外とちゃんとしてるんだ。言葉も通じるしな。
でも、裏から来るのは」
体をなくした魂。
腹を空かせてよだれを垂らした獣。
面白半分にイタズラ目的で来る妖精。
「どれにしても、できれば関わりたくない。そんな客たちが来る」
そんなときもあるさ。
店主は笑って俺にそう言った。
「吸血鬼お嬢様、先月会ったっけ」
満月の夜に出会った小さな女の子。目を赤く燃やしながら、俺に微笑んでこう言った。
「夜は長いわ。私と遊びましょう?」
その夜は本当に長かった。
朝が来るまで一対一のフルバトル。もちろん、最後は俺が勝った。人生ゲームで人が負けたら人生終わってる。
そうだよ。二人で一晩徹夜で遊んだのは人生ゲーム。
俺はそれなりに人生の配分をわかってるけど、向こうは不老の吸血鬼。人生のターニングポイントがわからなくてずっとゴールできなくなる。
というか、なんで吸血鬼と人生ゲームなんてやってたんだろう。
朝日が登る頃には吸血鬼のお世話係、じゃなくて。旦那と、あ、やっぱりお世話係だった。庭師って言う吸血鬼がやって来て、俺とお嬢様は二人仲良く怒られた。
なんで人生ゲームを徹夜でやりながら酒盛りしてるのか、ってな。
俺とお嬢様は意外と気が合ったせいで、途中から酒を持ち出して大騒ぎ。最後にはお嬢様がこう言う始末。
「貴方、いい機会だから吸血鬼になっちゃいなさい!」
人間やめるいい機会ってなんだよ。
俺は笑いながら答えた。
「また来月来るから、そのとき決める」
また、今月あの屋敷へ行かないと。
記録の森と呼ばれるあの森へ。
「あー、あっつー」
俺は何度目ともしらない言葉を窓から吐き出す。数時間前よりは風が出て、少しは涼しくなったかもしれない。
階段の下から聞こえていた賑やかな声はおとなしくなって、店主もそろそろ食事時だなと俺は感じていた。
待ち人はまだ来ない。
俺は持ってきた水筒を手にした。中身は早々に空になったから、何度も下の店に行ってはスノウサイダーを継ぎ足した。おっと、ちゃんと代金を払ってだぞ?
「そんなに継ぎ足すと、スノウ(雪)がアイス(氷)になるぞ」
店主にそうは言われたが、この暑さ。水筒の中身はどんどんなくなる。
でも、不思議なんだよな。何回も継ぎ足していくと、水筒に入る量が減っていくんだ。なんでだと思う?
水筒の底に氷ができてたんだ。サイダーの雪の成分が底に溜まっちゃって固まったんだってさ。
スノウサイダーはすぐに飲まないといけない理由がこれってわけさ。あと、透明なコップやビンで渡される理由も。
炭酸が抜ける、温くなる。そうじゃなくって、それよりも速いスピードでスノウサイダーの中の雪が溶けちゃうんだ。溶けた雪は底に溜まって、冷たい炭酸に冷やされてまた凍る。凍った雪はもうふわふわの雪じゃなくて、カチカチの氷になる。これが店主の言う「アイスサイダー」。
いいか? スノウサイダーを買ったら、すぐに飲むんだぞ。雪はすぐに溶けちゃうんだからな。
「言ってたのはこの事か」
減ってしまったサイダーを飲みきって、俺は水筒をテーブルの上に置いた。肉球柄の水筒も俺と同じように汗をかいていた。
窓から風がやって来た。シャンシャンしゃらりと不思議な音色を響かせて、深緑色のヴェールをひるがえした少女が夏の空で踊っている。
「元気だな」
窓からそれを見た俺は、カバンの中に詰め込んでおいたタオルを手にイスの上へ戻った。
そして、深緑の少女が舞うのをぼんやりと見ていた。
妖精とも精霊とも、幽霊とも言えない四季の四姉妹。彼女たちは自分の季節になると、どこからかやって来る。いや、もしかしたら彼女たちが季節を連れてくるのかもしれない。
春には桃色ヴェールをふわりと纏って。
夏には新緑ヴェールをひらりと翻して。
秋には緋色ヴェールをぱさりと叩きつけて。
冬には白色ヴェールをさらりと流して。
俺は何度も彼女たちを見てきた。季節がめぐる度に、ヴェールの色が変わる度に、時間が過ぎていく。
彼女たちはヒトじゃなかった。もちろん、ケモノでも。
初めて彼女たちに出会って「おねえさん」と呼んだちびっこい俺の背は、すぐに彼女たちを抜かした。
会う度に俺は成長していく。身長も伸びた。声も低くなった。筋肉もムキムキ、とは言えないか。
俺は、子どもじゃなくなった。
彼女たちは、出会ったときのままの笑顔で空を舞っている。
俺は、シャンシャンしゃらりと鳴らし続けて踊る深緑の彼女をぼんやりと見ていた。
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