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カコ婆さん
メルカトルは歩き続けてとうとう岬まで来てしまった。
岬の端っこに小さなお婆さんの姿が見える。カコ婆さんだ。カコ婆さんは自分の事をまだ少女だと思っているという噂だ。ああやってずっと岬で何かを待っているらしい。
「やあ、カコばあ、いや、カコさん。今日もいいお天気だね」
「メルカトルだね。あんたも変な噂を信じているようだね、あたしゃまだボケちゃいないよ」
カコ婆さんはメルカトルの方を見ずに言った。その声は力強く、若々しかった。
「なんだそうだったんだ。ここから何か見えるのかい?」
「ああ、見えるさ、よく見える」
「僕にはずっと続いている海しか見えないよ」
「あんたにゃまだ見えんか」
メルカトルは、カコ婆さんが待ち続けている何かとは、とてもとても大切な“誰か”なんじゃないかなと思った。
「カコさん、何か忘れられない事があるの?」
「誰にだってあるだろうよ、おまえにだってあるだろう」
「僕の友達が言っていたよ。過去に戻るのは無理だから、未来から戻ってきたと思えばいい、いつだって今が一番大事なんだって」
「昔には戻れない事くらいわかっているさ。だけど季節ってのはグルグル巡ってくるだろ? だからこうやって待っていれば、またあの頃が向こうからやってくるような気がしてねぇ」
岬から海の彼方を眺めているカコ婆さんの目は、白く濁っている。もしかしたら、沈んでいく夕陽や、昇る朝陽も見えていないのかもしれない。戻るはずのない過去を待ちすぎて、未来を見ることをやめてしまったかのようだ。
「カコさん、カナシミっていう病気を知っているかい? 僕の友達が罹ってしまって、薬を探しているんだ」
「そんな病気を聞いたこともあったかもしれないねぇ、今はもう忘れちまったよ」
「そっかぁ、忘れちゃったのならしょうがないな」
海風がやさしくメルカトルの頬を撫でていく。汽船がボーっと音を立てて沖を進んでいくのが見える。カモメ達がまるで小さな雲のようにその後を追う。
「メルカトルや、人の心は航海に似ている」
お礼を言って歩き出そうとしていたメルカトルに、カコ婆さんは突然そう言った。
「大海原の真ん中で、舵を少しだけ動かしても、そこから見える景色は全く変わらないように思えるだろう。じゃがな、船が到着する場所は大きく変わっているんだよ。少しの変化は大きな一歩なのさ」
「うん、わかったよ」
「その友達の病気、良くなるといいねぇ」
「ありがとう、僕もそう思っているよ。それじゃあまたね」
メルカトルにはカコ婆さんが伝えたかったことがよく分からなかった。いつだって未来は目の前にあって、海は穏やかだ。
クレメルは言っていた。
“大切なものは見えない事が多いけど、どうして見えないのかを考えたらだめだ。見えているものまで見えなくなってしまうからね”
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