閨の暇さえつれなかりけり

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 英語で言うところの『Adam´s Apple』、直訳すると『アダムのリンゴ』と呼ばれる箇所だった。 禁断の木の実たるリンゴを食べたアダムが、慌てふためいた際に喉につっかえた名残りだと目されている。  陽光はようやく、柊のジャケットの襟元へと手をかけた。 (ボタン)は二個ともに最初から留められていない。 ベストまでをも着込む際には、ジャケットの釦を止めないのが通例(お約束)とされているからだろう。  陽光にはまるで知る由もなかったが、黒い縞模様が浮き上がっている褐色の(ボタン)は水牛の角で作られていた。 もう既に陽光の『次』を察して、柊は後ろ頭を唇を放し両腕を下げた。  時刻はもう夜に近い夕方だ。 部屋の窓のカーテンは未だに下ろされたままで、開けられるどころかまるっきり触れられてもいない。 景色が一望出来るだろう窓辺には柊も陽光も、近づいてすらいなかった。  もしも、先ほど柊が照明を点けていたのならば、脱がせたジャケットの裏地が模様までがはっきりと陽光にも見えていたはずだ。 表の生地よりも赤みがはっきりとしている裏地は、そのものずばり葡萄(えび)色だった。
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