幸せの価値観

えっ？ 何の話ですって？ この店は通称『精子バンク』。昨年から日本でも承認され、利用者は増加しているけど、基本的には反対意見が多い。「精子バンクで子供を作ったわ」とか日本でフランクに言えるようになるには当分時間が掛かりそう。ニュースでは、現在の離婚率が50%を超えたと報道されていた。私の友達も既に離婚している人が目立つ。円満離婚なら問題無いけど、嫌いになって別れた時、その人の物を全て捨てようとしても、当然、子供は捨てられない。嫌いな人の血が半分も入っているというのに……。それなら、最初から関係無い人との子供の方が良いじゃないかと、私は割りきって思うようになってきていた。

同じレベルの大卒の人のデータが並ぶ中、少しレベルを落とした大学でも、高身長という条件に惹(ひ)かれ、ある男性を希望した。
私は2日前から地元の産婦人科でデータを取り、今日が排卵日前日だ。そして、直ぐに人工受精手術を行い、その日は60万円をカードで支払って帰る。
翌日、地元の産婦人科で妊娠を確認し、晴れて妊婦となったのだった。

そんな中、連休最終日、高校時代の友人から久し振りに連絡があり、男性を紹介してくれるという話があった。同性の友人からの紹介は普通、あまり期待出来ない。良い人なら自分が付き合えば良い話だから。ただ、彼女は既婚者なので、その辺は今回関係無いと思う。話を聞くと、プロ野球選手を目指していて挫折したので、頭は良くないし、お金も持ってないけど、とにかくハンサムなバツ1の50歳との事だった。写真を見せてもらうと確かにハンサム。色黒で彫りが深いという印象。離婚して日が浅いので今がチャンスらしい。話はトントン拍子に進み、その日の夜、2人で食事をする事になった。

「こんばんは。竹内さんですか？」
「は、はい」
「渡辺です。今日は宜しくお願いします」
「こ、こちらこそ」

写真というのは信用出来ない。特に女性はメイク1つで全然違うし、奇跡の1枚的なものもある。ただ、渡辺さんは違った。実物もハンサム。プロ野球選手を目指していたという事もあってか、180近い身長でがっしりとした体型。50歳だし、もちろん身体は緩んできていると思うけど、ノーネクタイで黒のスーツが決まっている。私達はイタリアンレストランで食事をし、お互いの現在の状況を話し合う。失礼とは思いながら、離婚の理由もサラッと聞いてみた。元奥さんが言うには、渡辺さんの頼りない面が嫌だとの事。元々、渡辺さんも価値観が合わないと感じていたので、1人息子が20歳になった事をきっかけに離婚となったらしい。基本的には円満離婚だそうな。
食事を終えると、その日は、どこにも行かず家路についた。
イケメンでスタイルも良く、話も上手い。お金は無いって聞いていたけど、食事代も奢ってくれた。確かに、ちょっと難しい話をすると、聞いていなかったかのような反応をするし、知的な面は感じられなかったけど、他の条件が良すぎて逆に不安になってきた……。多分、他にも恋人候補はいるんだろう。少し好きになりかけていたところもあったけど、失恋した時のショックを和らげる為、出来るだけ好きという感情にならないよう注意した。
私は翌週も渡辺さんからディナーに誘われた。だけど、前回と違い、彼はあまり楽しそうでは無い。そして、別れ間際、彼が神妙な面持ちで私の名前を呼んだので、ああ、もう会えないと告げられるのかな、と思った。

「俺と結婚を前提に付き合ってください！」
え？！ 私は頭の中が真っ白になった。
「は、はい」

今までは好きになったらいけないと思い、自分の気持ちをセーブしていたけど、好きになっても良いんだと思うと、今までの何倍ものスピードで彼の事を好きになっていった。
ただ、大事な事を忘れている。私は妊娠しているのだ。このまま結婚となれば嬉しい限りだけど、妊娠していると知ったら彼は幻滅するだろう。もし、気にしないと言ってくれたとしても、『精子バンク』で産んだ子供や、それ以降に産まれた子供は、国からの補助金が受けられないルールがある。1人ぐらいなら補助金無しで育てていけると思うけど、2人以上となると厳し過ぎる。

そして、翌週、私は彼から正式にプロポーズを受けた。お金がないからと、婚約指輪は無かったけど、そんなのはどうでも良い。本当に幸せ。でも、妊娠の件はどうにかしないといけない……。60万円を捨てる事にもなるし、中絶費用は15万円で、更に身体へ負担も掛ける。2度と子供を産めない身体になる可能性もゼロじゃない……。300万円にしなくて良かったし、75万円以上の幸せが待っていると、無理やりプラス思考で考えようとしたけど、いつの間にか頬を涙が伝っていた。私は心を鬼にして、中絶を決意した。