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けーちゃんは、たわいもない日常会話と同じトーンで、結婚しよっか、と言った。あまりにも自然にそのフレーズを口にしたので、買い物に行こうか、の聞き間違えかと思い、私はうっかり返事をしそうになった。
朝陽が脱衣所の小窓から覗く、土曜日。午前中に、一週間分の日用品と食料を買いに行くことが私たちのルーティン。そのぐらい日常に溶け込んだ問い。
「えっと、……買い物って言った?」
洗面台の鏡に、歯ブラシを咥えたまぬけ顔の私。
その隣の彼の髪は、発言と同じように自由に飛び跳ねている。
「ぶっぶー。結婚の提案だよ」
起きたての眉毛もない乙女にプロポーズをするなんて、この人はどこまでズレているのだろう。せめてこっちを見るとか、もっと情熱的なものとか、緊張感とか。そーゆー雰囲気ってものが、あってもいいよね、なんて思う。
「結婚しようか、って言ったよ〜」
「そのゆるいテンション、間違ってない?」
「間違ってるのは、しろちゃんの返事だよ」
「ただの相槌に正解も不正解もないよね」
彼はうねった前髪をひっぱる。くるんと形状記憶されているそれは、元の位置にすぐ戻った。
「……で、どう? 僕と婚姻関係を結んで頂けますか?」
「急に丁寧」
けーちゃんはふいっと顔を逸らし、唇を尖らせる。
「どのテンションが正しいのか、分かんないんだよね」
「私だって知らないよ。プロポーズは初めてなので」
「それは、僕も一緒だ」
「お互い初めて同士なんて……初々しいよねぇ」
「初々しいかい? 僕はずっとこうやって暮らして来た気がしますよ、ばあさんや」
「うら若き乙女に、ばあさん呼びは良くないなぁ」
「本当に若い人は、“うら若き”なんて言葉は使わないね。……ニセモノばあさん」
「プロポーズの相手に、ばあさんって言っちゃうのは、返事がイエスだと確信してるからなのかい? うぬぼれじいさんや」
私たちは二十代で、老後を迎えるのにはまだまだ途方のない時間が残されている、はずだった。それは一週間前に突如として変わってしまったけれど。
彼の顔をじっと見上げると、はにかんだような笑み。
入り込んだ陽射しで彼は半透明になる。
「……結婚しよっかぁ」
その軽い言い方はどうにかなんないのかな。
ため息をひとつ溢し、まじまじと見る。頼りないようなゆるみ切った顔はカッコいいと言うより愛嬌のある顔立ち。優しい雰囲気は天然パーマと童顔が馴染んでいるから。
私より五つも上で、歳上の貫禄はゼロ。でも、そんなことは気にしていないし、問題にはならない。もう少し立派なプロポーズが良かった、という感想はあるけれど、これはこれで悪くないと思う。問題なのは、もっと別のこと。
「結婚は、……しません」
「そんな……、ばあさんって言ったから?」
けーちゃんは、想定外の返事だったのか、この世の終わりのような顔になる。
「ばあさんは問題じゃないよ」
悲愴な顔は、鏡には映っていない。
彼の頬を目指し、両腕を伸ばす。けれど、予想した通り、空をきった。
「問題は、けーちゃんがユーレイってこと」
「……とんでもない問題だ」
彼はどうしたものかと頭を抱えた。
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