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始まりは三年前。
私は大学を卒業後、大手製薬会社に就職した。配属された営業部の空気はしいんとしていて、同僚は高学歴の人が多く、理詰めで考える人が半数を占めていた。無駄を徹底的に省き、数字という結果がすべて。その中にけーちゃんはいた。
枝野圭史と名乗り、にこにこと笑って部署“らしく”ない存在感を放っていた。
「よろしくー、なんでも気軽に聞いてね〜」
マイナスイオンでも出ているのかという穏やかさが、緊張したオフィスを潤した。
この人、部署で浮いてるのかな?
これが彼に対する第一印象。
教育係になった彼に仕事を教わるうち、その考えは徐々に覆された。部署で一番の成績の彼は、ドラマに出てくる俳優のように派手さはないが、内面のポテンシャルは高かった。取引をする相手は主に医者や薬剤師で、業務量が多いためか新剤のプレゼンや納品に行ってもピリピリしていることが多い。
枝野さんの朗らかさは緊張感を与えず、相手が知りたい情報に科学的根拠を交え、かつ温厚に伝える。
枝野さんが勧めるのであれば試してみよう、と治験薬もスムーズに採用され、その結果トップの業績を弾き出していた。
穏やかなやり手は振り返れば、実績が残る。凄いことをゆるくやってのける優秀さに、職場の先輩としてだけではなく、異性としても惹かれていった。
「教育係が終わっても相談してね〜、最後に食事でも行く?」
そう言われ、教育期間を終えた後、一緒に食事をした。
その時、辛いもの(例えばワサビや胡椒、カラシなど)が苦手なことを知り、歳上の彼の可愛い弱点を見つけて嬉しくなった。
それから、心配事があると無理やり相談することを探し、彼との接点を持とうとした。
枝野さんが、枝さん、圭史さん、圭さん、と時間を経るごとに距離が近くなり、
「けーちゃんって、仲がいい人は呼ぶよ?」
という、なんとも言えないニュアンスで呼び名を教えられたとき、パーソナルスペースに手招きされているような気持ちになった。
「仲がいい、に私は入りますか?」
残業で、フロアにはふたりしかいなかった。
「そうだねぇ。会社では一番だね」
「……女の子の中ではどうですか?」
「うーん、女のひとでも一番だなぁ」
こっちがはっきり言えばいいのかな、と誰もいない空間に後押しされた気がして、緊張しながら、彼を見た。
「……けーちゃんって呼びます」
最大の勇気を振り絞った、と、恥ずかしさのあまり視線を向けることをやめると、彼は穏やかに言った。
「じゃあ、馬宮さんのことはしろちゃんって呼ぶ」
「……真白って名前、覚えててくれたんですか?」
嬉しくて、彼のストライプシャツの裾を持った。するとじわじわとネクタイが近くなり、次に顔が近くなった。
「好きなひとの名前だから」
温厚だけれど、業績トップは抜け目がない。
普段の優しい顔とは違い、真剣で熱い瞳に、気持ちをぎゅっと握られた。
促されるまま瞼を閉じると、そこから彼との関係が始まった。
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