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「どこ……?」
見知らぬ部屋の、ベッドの上。
ぱちりと目を開いたら、真っ白な天井がそこにはあった。
慌てて上体を起こしたら、軽い眩暈に襲われた。
頭が痛い。左手で額を押さえ、息をつまらせながら痛みをこらえる。完全なる二日酔いだ。
光を感じて右を見やると、白いレースのカーテンがかかる窓の向こうはすっかり明るくなっていた。開け放たれた窓から、いい風が吹き込んでくる。
どうやらここは、誰かの家の寝室であるらしい。窓のすぐ上にかかる壁掛け時計を見ると、時刻は朝の九時を回っていた。
「どうなってんだ……?」
まったく働いてくれそうもない頭で、翔真は懸命に記憶をたどる。
昨日は新曲のレコーディングの予定だった。スタジオに十五時集合で、間違いなく時間どおりに向かった。
だけど――そうだ。
レコーディングスタジオの入っているビルの下で、猛烈に気分が悪くなった。吐きそうで、その場にしゃがみ込んでバンドメンバーのハルに電話をかけた。
ハルはすぐにスタジオから下りてきて、「大丈夫か」と背中をさすってくれた。情けなくて、悔しくてたまらなかったけれど、ハルにどれだけ励まされても、昨日はついに、スタジオへ入ることさえできなかった。
これで三度目だ。レコーディングに失敗したのは。
一度目は、マイクの前に立って歌い始めた途端、突然の恐怖感に襲われて声が出なくなり、からだの震えが止まらなくなった。
二度目は、録音ブースへ入ろうとしたら足が竦んで動けなくなった。
そして、昨日。三度目のチャレンジは、スタジオにさえたどり着けずに終わった。
まったく笑えない。
ロックバンドのボーカリストが、歌うことを怖れるようになってしまったなんて。
憂鬱が押し寄せてきて、翔真はため息を吐き出した。だんだん頭が冴えてきて、昨日の記憶が鮮明に蘇ってくる。
納期が迫っているというのに、表題曲の収録が遅れていた。同時収録の二曲はすでに完成していて、あと一曲録れば編集作業を経て無事納められるというところまできていたのに、レコーディング予定日、ボーカルの翔真に異変が起きた。
声が出ない。
話すことはできるのに、録音ブースに入ってマイクの前に立つともうダメだった。巨大な恐怖の波に攫われ、息ができなくなってしまう。
喉の不調ではない。しゃべることは問題なくできる。
歌えないのだ。歌おうとすると、怖くなってからだが固まる。
どうしようもなかった。どうにもならなかった。何度もチャレンジして、それでも翔真は歌えなかった。
歌い出そうとすると、耳の中が別のボーカリストの歌声に占拠されてしまう。その歌声に邪魔されて、自分の声を見失う。
歌っても、歌っても、自分の声が聞こえない。その人の歌になってしまう。それが怖くてたまらなかった。
暗闇に迷い込み、抜け出せなくなっていた。
探しても探しても見つからない。どこ行っちまったんだよ、俺の声は。俺の歌は。
なぁ、教えてくれよ。
あんたがいれば、あんたの歌声さえあれば、やっぱり俺はいらないのか――?
きゅうぅ、と肺が締めつけられる。苦しくなって、翔真は軽く咳き込んだ。
うまく歌えなくなってしまってから、かれこれ二週間。やけになって、溺れるように酒を呷った。
もともと酒は強くて、酔いたいと思ったらとにかく量を呑まなければならない。よく行くバーのマスターに「翔真くん、そろそろ」とたしなめられても、昨日は「もうちょっと、もうちょっと」といつもよりハイペースでガンガン呑んだ。
カウンターでマスターとそんなやりとりがあったことまでは覚えている。それ以降の記憶がない。だからここがどこだかわからないし、なぜ自分の部屋でもないところでスヤスヤと朝まで眠りこけてしまったのか、まったく理解できなかった。
かけてもらったと思われるタオルケットを丁寧に畳んでからベッドを降りる。ふらふらしながら部屋を出て、扉を押し開けると、次の間はリビングルームだった。
ソファ、テレビ、二人掛けの小ぶりなダイニングテーブル。テーブルの向こうはカウンターキッチンになっていて、キッチンのすぐ横から廊下へ出られるようになっている。廊下の先にあるのはトイレや風呂場だろうか。もう一部屋あるかもしれない。
ごくごく一般的なマンションの一室だった。家具が白と黒で統一される中、カーテンだけがさわやかなライムグリーンで目を引く。夏も盛りだというのに、寝室同様、開け放たれた窓からはすぅっと気持ちいい風が吹き込んできた。
全体的に物の少ない部屋だなと感じた。一人暮らしなのだろうか。シンプルイズベストを表現したかのような空間で、住人は男性かもしれないなと翔真は直感的に思った。
しかし、肝心の家主の姿がなかった。そもそも、この家からは翔真以外の人の気配がまったくしない。つまり翔真は今、見知らぬ誰かの家に一人取り残された状態ということだ。
「どうなってんだよマジで」
さっきと同じセリフを吐きながら、翔真はゆっくりとくつろぎ空間に歩を進める。アイボリーの布地が優しいソファとテレビの間には、ガラス天板のローテーブルが一台あった。物は置かれておらず、汚れ一つないそれを見れば、家主の几帳面さがひしひしと伝わってくる。
ダイニングテーブルに目を向けると、ブラックの缶コーヒーが一つ、テーブルの真ん中にちょこんと鎮座していた。その隣にはスペアと思われるルームキーが一本、缶の下にはメモ用紙らしきものが挟まれていて、缶が重石代わりになっている。
近づいてみると、メモ用紙は翔真宛ての置き手紙だった。翔真は慌てて缶と手紙を掴み上げる。
手紙には、きれいな字でこう綴られていた。
【おはよう、翔真。
帰る時はちゃんと鍵をかけていってね。鍵はドアポストに放り込んでおいてくれればいいから。
コーヒーもよかったらどうぞ。きみが起きる頃にはぬるくなってるかも。
和彰】
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