宮殿

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宮殿

 態々寄越してくれた車に乗り込み、圭は新城礼子の元に向かっていた。後部座席に腰を掛けて、流れる景色を眺める。  運転手は、三十過ぎに見える男である。礼子専属の運転手は四十過ぎの婦人らしいから、新城家の運転手なのだろう。  運転手はチラチラと、圭を確認するかのように横目で見る。酷い時は、交差点で警察官の止まれの合図に従ったまま、圭を横目で見ていた為に、進めの合図を見逃し、叱られる騒動を起こした。  にも拘わらず、懲りもせずにまだ圭を見ている。 「私になにか仰りたいことがおありで?」  やや居丈高に言うと、漸く止んだ。  大体の見当はつく。礼子が子供とは言え男を招いたのが、運転手にすれば大事件なのだろう。  三十分ほどで屋敷に着いた。広大な敷地に車は乗り込み、奥へ奥へと向かう。 「先ほどは失礼致しました、レディー」  流暢とは言えぬ英國語に、圭の静かな怒りに火が点きかけた。 「あまりの美しさについ、見惚れてしまいました」  英國語としては流暢とは言いかねたが、レディーは言い馴れた様子であった。主、つまり礼子をそう呼んでいるのだろうか?  それはともかく、客人である、しかも子供を相手に軟派な態度は戴けない。 「私は男ですが」  運転手の目が、再び圭に向けられた。が、気不味い様子で前に向く。 「重ね重ね失礼致しました」  失礼にもほどがある。が、これから会う相手は恐らくもっと疲れる相手であろうから、忘れることにした。  柊が塀のように並んでいる。その手前で車は停まり、待っていたらしい美少女が扉を開いてくれた。音楽会で案内してくれた少女であった。 「ようこそおいで下さいました。ここからは私、アヤメがご案内致します」  今日は橙色のドレスのようだ。羽織っている生成りのコォトの下から、鮮やかな色の裾が覗いている。 「お願い致します」  アヤメからは敵意が見て取れた。言い方柔らかく、丁寧ではあったけれど、目の中に鋭い光が見える。  圭は敵意に気付かぬ振りで、目を伏せ深呼吸を一つすると、音楽会の時と同じく、美沙子に似て見えるよう優しい表情を作った。  アヤメは美沙子とはさほど似ているとは思えなかったが、やや後ろから見た横顔が面影を持っていた。  一途だと考えれば良いのだろうか? 二十年以上も美沙子を思い続け、今尚忘れられぬ礼子を。  いいや。と、否定する。どんなに一途な気持ちであろうと、面影を持つ少女を侍らせているのはあまり良い趣味だとは思えない。  美少女を侍らせているのは十年以上も前からだそうだから、美沙子にしても愉快な気持ちはしなかっただろうし、身代わりにされている少女の気持ちはいかなるものかと考えると複雑なものがある。アヤメの目に浮かぶ敵意は、礼子への思慕から生まれたのではないかと考えると、憐れに思えなくもないのだから。  礼子は人の気持ちはどうでもいいのだろう。美沙子の気持ちを慮らなかったことからもそれはわかる。  柊の塀を抜けると、一面に水仙の花が咲き乱れていた。  おやおや。と、心の中で呟く。礼子の化身がここにある。と、花言葉を思い出して、意地悪く考えていた。  少し離れた場所からは、蠟梅の芳香が漂って来る。  そうして、最も奥まった場所に小さな洋館が見えた。  小さいとはいっても、さっき通り過ぎた館に比較すればであって、庶民感覚で言ったならば、豪邸である。どうやらPetit trianonに招かれてしまったらしい。美沙子のお陰で特別待遇を受ける羽目に陥ってしまったようだった。  洋館の真ん前には、薔薇が棘を晒している。花の季節になれば美しいのだろうが、今はただ、寒そうな風景にしか見えない。  二月初めの寒空の下、吐く息も白く見える中、客人を歩かせるには少々距離がある。  新城家はかなりの資産家だとは知っていたが、考えていた以上であるらしい。東京市のやや外れだとは言え、これだけ広大な土地を所有するには、ちょっとやそっとの財力では無理だろう。  どこで見ていたのか、玄関扉が開いた。お陰で歩みを止めぬまま洋館の中に入れたのだが、気を遣うならもっと、別の場所に気遣いが欲しい。車を玄関まで寄せられたなら、体がこれほど冷えることはなかろうに。と。  屋内は温かかった。どうやらスチィム暖房らしい器具が見えた。広い屋敷を温めるためには一つ二つでは足りないのだろう、あちこちにまるでマントルピィスのように囲い、上には花を飾り、女性らしい華やかさと言えば聞こえは良かろうが、いっそ器具を剥き出しにしておいた方が良かったのでは? と思わせるゴテゴテ感である。 「こちらでございます」  開かれた扉の向こうには紫色のドレスの礼子が、椅子から立ち上がるのが見えた。
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