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思い出
「ようこそ、圭一様」
紫露草色のドレス。目鼻立ちのはっきりした礼子には良く似合っている。
こうして眺めると、美沙子と礼子は全く持って対照的な二人である。美沙子は朱鷺色や若竹色と言った優しい色が似合っていた。
礼子の傍にいた水色のドレスを着た美少女が、圭の着ていたコォトを恭しく受け取ると、部屋の外に出て行った。アヤメのコォトも一緒に。
「お招き下さいまして、ありがとうございます。
素晴らしいお屋敷ですね」
心にもない世辞を言ってみる。
「ありがとうございます。白梅の君も、お気に召して下さっていらしたご様子でしたわ」
それはなかろう。美沙子と圭は好みが似ている。簡素な美を好む傾向があるのだ。
緑色のドレスを着た少女が、蓄音機を操作しているのが見える。袖口のレェスが気になるらしく、片方の手で押さえながら操作していた。
流れて来た曲は、サンサァンスの「動物の謝肉祭」の中の最も有名な曲、「白鳥」。先だっての音楽会でも演じられた。美沙子が最も好んだ曲だった。
日当たりの良い窓際に、丸い、小さな小卓に二つの椅子が用意されている。
「どうぞお座り下さいませ」
言われるままに座ると、アヤメが紅茶を目の前に置いた。いい香りだが、敵地に一人で乗り込んだ気持ちでいる圭は、口にしようという気にはなれなかった。
礼子はじっと圭を見つめると、瞳を潤ませた。
「本当に、よく似ておいでですわ。まるで女学生の頃に戻った気持ちにさせられます。
あの頃、私は白梅の君のお傍にいられるだけで幸せでしたの」
少しだけ表情が曇ったのを確認した。美沙子との思い出の中に、喜ばしくない記憶が呼び起されたのだろう。
「白梅の君との思い出は今では、私の一番大切な宝物ですのよ。どんなに美しい宝石でも敵わぬ、宝物」
どうやら礼子は、美しい思い出だけを切り抜いて編集し、覚えるだけの器用さは持ち併せていなかったらしい。時々唇を噛みしめたり、眉間に皺を寄せたりしながら、美沙子の美しさを語った。
礼子の語る美沙子はまるで、女神のようであった。
確かに、美沙子は美しかった。可愛らしかった。それは息子の目から見ても感じることではあるが、礼子の語る美沙子はそれだけではなかった。
礼子の心の中で美沙子は、穢れを知らぬ乙女であった。その唇から発する言葉は天上の詩であった。
音楽会で確認のために、麻上圭一と言いはしたが、それ以降一度も、麻上と言う姓を口にすることはなかった。美沙子の呼び名も、白梅の君で統一されている。
麻上は美沙子を礼子から奪った憎い男の姓。どうしても口にしたくはないのだろう。
恋知り初めし乙女ならば、可愛らしい。で済む話だろうが、三十も半ばの人妻が発すれば、狂気染みた言葉に聞こえてしまうのも仕方はない。礼子の語るように美沙子が穢れを知らぬ乙女であったならば、圭はこの世に存在しない。
どうしても認めたくはないようだが、美沙子と和孝は仲睦まじい夫婦であった。それは圭が物心ついた頃から、死が二人を別った日まで変わらなかった。いや、和孝を失ってもなお美沙子は変わらず、亡き良人を愛し続けていた。
時々、礼子が顔を寄せてくるのが気になった。まるで可愛らしい子猫を愛でているかのように、顔を寄せて来るのだ。不愉快に思いながらも、飾られている絵を気にした振りで、景色を眺める振りで圭が遠ざかると、礼子は残念そうな表情で離れるを繰り返した。
「圭一様、襟帯はなさいませんの?」
今日は態と、中性的な雰囲気の恰好をしてきた。
薄い灰色の地色に、茶色の線で格子柄を作った上着に、襟帯はなし。ズボンも同じで、コォトは薄茶色であった。
「必要な時には」
礼子はアヤメの方に向くと、何やら目配せをした。心得たとばかりにアヤメは何かを机の上から取り上げ、こちらに向かって来る。
その手には小さな箱が載っていた。天鵞絨のような光沢をもつ布張りの箱。宝飾品の類だと気付いた。
「是非、圭一様に」
小箱の蓋を開いて、アヤメが圭にそれを突き出す。襟帯留めが輝いていた。
襟帯留めとは言っても実用よりもお洒落のための要素が強く、結び目の下に二寸ほどの針の部分を挿して固定する。
目の前に出された物は、金剛石が煌めいていた。その周囲を白金らしき銀色の金属で囲っているだけの意匠であるが、小豆ほどの大きさの金剛石が太陽の光を浴びて眩しいほどである。
圭は今まで絶やさなかった笑みを、悲し気な表情に入れ替えた。
「落ちぶれたりと言えども、決して物乞いをしてはなりませんと、祖母は申しておりました」
「そ……そのような意味では……」
礼子はアヤメを追い払うかのように手を振り、戸惑いに満ちた目を圭に向けた。
「圭一様にお似合いだと思って……」
いつもそうしているのだろう。高価な品物を差し出されて、喜ばぬ人間が今までいなかったに違いない。礼子の態度は圭が喜ぶのを確信している様子であった。そうして次に会った時は更に高価な品物を。
馬鹿にするにもほどがある。心の中で怒りが爆発した。
この手の人間には、怒りをぶつけても仕方がない。自分は良いことをしていると思っているのだから、怒りの理由がわからないのだ。
一番堪えるのは……。
圭は立ち上がると、頭を下げた。
「そろそろ帰らなければ……本日はとても楽しい時間を、ありがとうございました」
礼子は項垂れたまま、ドレスのスカート部分を強く握りしめて震えていた。
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